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番外編:ドイツの西南ラスカンのとなり~ロレーヌ・メス1944

ドイツの西北ラスカンのとなり~アーヘン1944

はじめに

 たまたま第116装甲師団史と第105装甲旅団史が書棚に揃ったので、1944年9月~10月のアーヘン攻防戦のことを書いてみようと思う。この戦場はもともと歴史上重視されているとは思えないが、すぐ南のヒュルトゲンの森の戦いが『ラスト・オブ・カンプフグルッペ』に取り上げられたため(「血のバケツ」アメリカ第28歩兵師団)、相対的にさらに「語られざる戦場」の印象が強まっている。

『ラスト・オブ・カンプフグルッペ』第3巻の出版は8月に予定されており、著者との約束で出版されたら「ラスカンIIIって売れてるんだって?!(棒読み)」とステマTwitterをすることになっている。この読み物も協賛企画であるので、文中不自然に『ラスト・オブ・カンプフグルッペ』への言及があるかもしれないが、言うまでもなくステマであるのでご寛恕いただきたい。

第116装甲師団(8月まで)

 第16自動車化歩兵師団(1943年6月より第16装甲擲弾兵師団)は1940年8月に第16歩兵師団をもとに編成された。歩兵師団からの改組にあたっていろいろな地域からの兵員を編合したが、「ルール=ヴェストファーレン兵団」と公式に書かれることも多かった。

 師団はバルカン作戦に参加し、バルバロッサ作戦ではクライストの第1戦車集団に属して南方軍集団で戦った。9-10月のキエフ包囲戦の際にグデーリアン(父)の第2戦車集団に配置替えとなり、中央軍集団に転じて1941-42年の冬をクルスク東方で過ごした。

 Lexikon der Wehrmachtによると、この師団に第116戦車大隊が配属されたのは1942年5月である。いつの車両内訳だかはっきりしないが、Lexikon der Wehrmachtは次のような構成を示している。

II号戦車1
III号戦車26
IV号戦車7
III号指揮戦車2
III号戦車(短砲身75mm)1

 1941年ごろの自動車化歩兵師団が戦車大隊を持っていなかったのは普通のことである。このころさまざまな補充を受け取って「新鮮」になり、1942年夏には再び南方へ投入されたが幸か不幸か激しく消耗し、1942年晩秋には予備の位置にあった。マンシュタインが攻勢をかけた時期にはスタリノ周辺で地味な防衛戦をやっていたようである。クルスク戦のころはちょうど再編成の最中であり、その後ザボロジェ、クリボイロクと後退戦の渦中にいた。

 師団長のグラーフ・シュヴェーリンは1943年のうちから、ルール=ヴェストファーレン兵団を来たるべき西部戦線で使ってくれるようヒトラーに手紙を書いていた。そのせいかどうか、泥将軍の助けを借りてフランスに移動する余裕を得た師団は、装甲師団への昇格が決まった。第16装甲師団はすでにあるので、第116装甲師団となったのである。

 スターリングラードで全滅した第60自動車化歩兵師団の再建師団として、フェルトヘルンハレ装甲擲弾兵師団が編成されたのは1943年6月である。この師団には特に2個大隊を持つ戦車連隊を配属する予定だったが、その余裕がなくなった。そこで結局フェルトヘルンハレ戦車大隊で我慢することになって、宙に浮いた連隊本部は第116装甲師団のために第16戦車連隊本部となった。従来の第116戦車大隊はその第I大隊となった。

 ところが結局第I大隊は軍直轄部隊として召し上げられ、もうひとつの大隊の代わりに戦術的指揮下にあったグロスドイッチュラント戦車連隊第I大隊もリトアニアの第6装甲師団に送られてしまう。代わりにやってきたのは、第24戦車連隊第I大隊である。スターリングラードでいちど全滅して再建されたが、大隊単位でイタリアやフランスに戦力を抽出されてしまった。そして第I大隊はガイル大将の西方軍戦車集団にいたのである。この記事が主な対象とする期間を通じて、第116装甲師団の戦車大隊はこの部隊だけである。ただしGuderian[2001]は第16戦車連隊「第II大隊」が8月14日、連隊本部とともに師団予備になったとちらっと書いている(p.81)。いくらかの戦車は届いていたと思われる。

 第16戦車連隊第I大隊は結局、第111装甲旅団の編成に使われることになった。消耗し再建された後、今度は第24戦車連隊第I大隊が全装備を引き渡して師団を抜け、第16戦車連隊第I大隊が第116装甲師団に戻ってくる。11月のことである。ちなみにその後、第24戦車連隊第I大隊はハンガリーへ行って第1装甲師団と共に戦う。

 第116装甲師団はファレーズ包囲戦で大きな打撃を受け、ふたつの擲弾兵連隊はそれぞれ300人ほどになり、戦車は12両しかなかった。Guderianによるともともと装甲偵察大隊は「中隊と1、2個小隊」の戦力しかなく、Nevenkinの記述も併せて考えると装甲車は(6月に送り出された記録はあるが)持っていなかったかもしれない。戦車駆逐大隊には21両のIV号駆逐戦車が送られており、これは(訓練未了ながら)頼りになったと思われる。

第105装甲旅団(実戦投入まで)

 7月11日、第18装甲擲弾兵師団の生き残りを中核として旅団が編成されることが決まった。13日に旅団長が発令され、16日にはポーランドのミーラウに生存者2160名が集められた。第25戦車訓練大隊はすでにあらかた第11装甲師団を再装備するのに使われていたが、残りがいくらか旅団に送り込まれた。このほかいくつかの戦車学校から要員が集められている。

 7月24日、「8月15日までに戦闘可能にする」という期限が8月31日まで延長された。8月6日に旅団としての本格的な訓練が始まったが、8月19日に着任する中隊長もいる始末だった。もっともパンターとIV号駆逐戦車(L70パンテルカノン装備)とSd.Kfz.251系列車両は8月中にほぼ定数がそろった。対空戦車としてはメーベルワーゲン(37ミリタイプ)がやってきた。編成表にない2両のベルゲパンターまでもらっている。だが8月末までに与えられた訓練期間はというと良くて3週間、駆逐戦車中隊については事実上ゼロだった。また、全体に下士官と士官は定数に満たなかった。

 そして9月1日、第105装甲旅団は西方軍に配属される。この時点ではモーデルが兼任していた西方軍司令官は9月3日にはルントシュテット元帥となった。西部戦線が再編成される節目ではあった。

残されて半島った人々~スヘルデの戦い

 9月4日にアントワープの確保が始まったが、アントワープとイギリス海峡をつなぐスヘルデ川の両岸は確保されておらず、特にその北側を東西に走る一群の半島と島はワルヘレン島を筆頭に要塞地区を含んでいた。マーケット・ガーデン作戦は現下の補給情勢のまま、一気にライン川下流のアーネムで橋を奪取してドイツ領になだれ込む計画だった。アーネムが奪取できなかったことによって、一連のスヘルデの戦いが必要となったが、言うまでもなくこれはマーケット・ガーデン作戦に補給物資を食われなければもっと早く始まっている作戦だった。

 この戦いはWikipediaに詳述されているように、カナダ第1軍によって主に担われた。ただしカナダの送った師団や旅団は1個軍には足らず、イギリス自身も含めて様々な国の兵団が配属されていた。この戦いでカナダ軍が被った損害は大きかったため関心が高く、webで公開されている記事や資料だけでも連隊レベル以下まで詳述されているものが多数ある。

 しかし、あくまで連合軍側である。ドイツ軍側に関して部隊名をちゃんと書いている例はあまりに少なく、後で見るように誤解もある。このへんを整理しておこうと思う。

まずはこの地図をご覧いただきたい。右上のほうに「FIFTEENTH ZANGEN」と赤い四角とXXXXで示されているのが、フォン・ツァンゲン将軍の第15軍司令部である。その右に「FIRST ~~ STUDENT」と書いてあるのが、シュトゥデント将軍の第1降下猟兵軍司令部である。どうもスヘルデの戦いのころ、海岸沿いは第15軍の担当だったようである。

 もともとオランダには国防軍司令官(Wehrmachtsbefehlshaber)としてクリスチャンセン空軍大将が赴任しており、オランダの陸軍部隊は第88軍団を介して彼の指揮下にあり、ロンメルは特に海岸防御に関してオランダの部隊を区処することが認められていた。1944年11月以降(日本語版Wikipediaは日付が間違っている。英語版参照)、クリスチャンセンの司令部は第25軍司令部に改組され、連合軍に置き去りにされたオランダ(の一部)を防衛するようになり、クリスチャンセンがしばらくその任にあった。

 1944年10月ごろの第15軍の編成を調べると、第67、第88、第89軍団が配属されている。第88軍団はもともとオランダにいた軍団で、1945年1月に「古巣」の第25軍に戻されている。第89軍団はどうやらDデイ以前にはベルギー沿岸を担当していた軍団であったらしいが、全滅もせず、ドイツ西部に移って戦い続けている。どうやらスヘルデの戦いのころ、スヘルデ川河口付近を担当していたのは第67(LXVII)軍団であったらしい。ただし軍団司令部そのものは全滅せずドイツに配置換えになっている。

 この軍団のもとで、少なくとも第64歩兵師団がスヘルデ川南岸で、また第70歩兵師団司令部がワルヘレン島で11月に壊滅した。また河口近くから南に延びるGhent–Terneuzen Canalを防衛していた第712歩兵師団は大損害を受け、残余部隊はクルマルク装甲擲弾兵師団に配属されてラスト・オブ・カンプフグルッペの世界に行った。流れ込んできた雑多な兵数は多くても、核となる師団が3つくらいだったというのはありそうな話だと思う。

 この第70歩兵師団は1944年7月17日に編成された。ワルヘレン島を守るためだけに作られた師団である。そして例えば第1018擲弾兵連隊は、「Sicherungs-Bataillon 1203 (M) 」をもとに編成されており、他の二つの連隊も(M)のついた保安大隊から編成されている。M? ああ海軍歩兵かと思って調べたが該当部隊がない。じつはMはMagenkranken(胃病)の略だった。大戦を通じて保安大隊(胃病)は18個作られたが、そのうち4個がこの3個連隊の基幹となっている。

 ちょっとややこしいのがChill戦闘団である。カナダ軍関係のサイトにも言及がある。まずKurt Chill中将だが、Lexikon der Wehrmachtによると第122歩兵師団長としてデミヤンスク包囲戦を耐え抜き、騎士十字章を受章している。1944年2月、新編成の第85歩兵師団を指揮するため第15軍管区にやってきた。この師団は若い番号だがまったくの新編成師団で、2個歩兵連隊しかなかった。この師団は9月には第88軍団、第1降下猟兵軍に属している。そしてスヘルデの戦いがたけなわだった10月には第67軍団、第15軍の所属となって、その後は第15軍指揮下のままアーヘン周辺にいる。

 さて、上記のサイトに言及がある第2および第6降下猟兵連隊だが、これらはずっと西のブレストへ集結し、9月に降伏している。東側に逃げるしかなかった一部がいたかもしれない、という程度である。いずれにせよ9月下旬にオランダで両連隊が属する第2降下猟兵師団の再編が始まり、12月に一応終わる。

 ただ9月のベルギー戦線はドイツ側から見るとカオスであって、再編中の部隊から戦闘団が切り出され、もともと半個師団の第85歩兵師団につけられて火消しに走ったというのも、ありそうな話である。そして上記のサイトも示唆するように、それはたぶん9月のうちに終わって、チル中将は降下猟兵を原隊に返し、すでに9月のうちから火が付き始めていたアーヘン周辺の防備にあたったのではあるまいか。

「チル戦闘団」がカナダ軍に強く印象付けられたことは、チル中将の期待余命を大きく延ばした。彼はその後東プロイセンで軍団長を務めていて、ソビエト軍に拘留されたのだが、イギリスの要求で身柄を移管され、1947年に出所することができたのである。彼は1976年に亡くなった。

MG作戦とアーヘン~両軍にとっての9月

 8月17日にはまだ第116装甲師団はアルジャンタン付近で戦っていた。8月23日にはルーアンでセーヌ川を渡るための橋頭保確保が戦闘の主眼となり、9月に入ると一気に退却速度を上げて、9月3日にはブリュッセル南東、ベルギー中央部のナミュールでミューズ川に達した。

 これに対し、連合軍の港湾確保はいっこうにはかどっていなかった。8月25日パリ解放。9月4日ブリュッセル入城と政治的なイベントは目白押しだったが、ルアーブルもブローニュもカレーも攻略が始まってすらいなかったのである。

 そして9月9日、連合軍はマーケット・ガーデン作戦を裁可した。作戦そのものは9月17日に始まり、おおむね25日に終わった。

 これに対し、ルアーブル攻略作戦'アストニア'は9月10日夕刻に始まり、12日には戦闘が終わったが、港湾が動き始めたのは10月9日だった。同様にブローニュ攻略作戦'ウェルヒット'は9月17日から22日まで戦闘が続き、閉塞船26隻を処理して港が使えるようになったのは11月18日だった。ただし10月13~15日に海底パイプラインPLUTOが使えるようになった。PLUTOはシェルブールへの4本を含め21本が敷設され、ブローニュだけが持っていたわけではない。

 もちろん連合軍もそんなことは分かっている。アメリカ軍の自動車輸送システムred ball expressは8月25日から機能し始めたといわれる。そしてイギリス軍を養うためにRed Lion Expressがバイユーからブリュッセルまで走った。この補給状況下で、連合軍には3本の矢があった。パットン、ホッジス、モントゴメリー。バットンは内陸部でフランスの東半分をドイツから取り返す戦いを続けていた。重要だが多分に政治的な目標で、ドイツを打倒する決定打ではない。そしてホッジスはベルギーまでドイツ軍を追ってきて、アーヘン付近が攻防の焦点になっていた。

 アーヘンは国境の町であって、ライン川の西側にある。獲ったらライン川が渡れるわけではない。だから迂回して前進するか? という選択が悩ましい。一方、モントゴメリーは自分に物資をくれればアーネムで一気にライン川の橋を確保し、ここからドイツに進撃できるようにすると言う。作戦は裁可されたので、もし成功すればアーヘン攻略など不要になる。ホッジスのアーヘンへの攻撃が10月に入ってから本格化するのは、こうした前後の事情がある。

フォン・シュヴェーリンの戦い(1) 9月9日まで

 第116装甲師団長フォン・シュヴェーリン伯爵は9月15日に軍団司令部に出頭を命ぜられ、そのまま拘束された。ちょっと異常な状況であって、その事情も含めて、この項ではまず9月15日までの戦況について述べよう。

 まずはマース(ミューズ)川を中心とした地図を掲げよう。右端近くにあるMaastrichtまで9月7日に第116装甲師団が撤退してくる。「ミューズ川まで後退」したのだからそれをそのまま防衛線にすればいいと言っても、南側は地続きであることがわかる。ともあれ9月前半の戦いは、ミューズ川を部分的に利用した防衛ラインで落ち着けるかどうかの戦いと言ってよいだろう。

 だがこの地図には、おなじみの地名がもうひとつある。Nijmegen(ナイメーヘン、またはニーメゲン)である。MG作戦によって、連合軍はミューズ川の南にあった防衛線を細く深く突き破り、ナイメーヘンでミューズ川を渡って、その北のアーネム(アーンエム、アルンヘム)でライン川を渡ろうとして失敗した。だから9月後半のMG作戦によってミューズ川防衛線は突き破られる運命にある。

 すでに8月20日には、9月になり次第第105・第106装甲旅団を西方軍に配属することがヒトラーに報告されている。西方軍は第105旅団をB軍集団、第106旅団をより南東にいたG軍集団に配属した。

 近くにいた2個旅団を同時に移動させたこともあってだらだらと日数がかかり、旅団の一部は2日には上の地図にあるNamur(ナミュール)に達したが、6日に移動を終えた一部もいた。

ナミュール付近の地図

 ファレーズ・ポケットに取り残されたドイツ軍が、連合軍から見ると補給線上の邪魔ものになっていた。ホッジスのアメリカ軍は第19軍団をMons(モンス)に取り残し、第5軍団と第8軍団だけに燃料を配給してなお前進しようとしていた。モーデルはナミュールと北北西のLeuven(ルーヴェン)のラインで連合軍を食い止めようとしていた。

 すっかり発言を封じられた感のあるデイヴィッド・アーヴィングだが、ペムゼル参謀長にインタビューして、心臓発作で死んだとされていた第7軍司令官のドルマン大将がじつは自殺だったことをばらしたのは彼の『狐の足跡』であろう。その後の第7軍司令官は不運続きだった。ハウサーが負傷。フンク男爵が負傷。エーベルバッハはファレーズポケットで捕まった。そして東部戦線から総統司令部勤務に移ったばかりのブランデンバーガー砲兵大将がモーデルの指揮下に移ってきた。ブランデンバーガーは8月31日に第7軍司令官に発令され、ナミュール=ルーヴェン線の防備を固めることになった。だが、まとまった戦力は当面第105装甲旅団だけで、それもさっきから述べているように、全然まとまってなどいない。それでもモーデルは、ブリュッセルにイギリス軍が突入したと聞くと、全力を挙げてその側面を攻撃するよう3日夜に第7軍へ命じた。全力とは、「第105装甲旅団だけで」と読むほかない。

 9月3日、第116装甲師団はナミュール西のCharleroi(シャルルロワ)で防衛線を敷こうとした。4日には第74軍団に転属し、大隊程度の規模になった第373歩兵師団戦闘団と肩を並べた。だが5日のアメリカ軍の攻撃を支えられず師団は東へ退却した。

 第105装甲旅団(の一部)はルーヴェンの南東Tienen(ティーネン、フランス語でTirlemont)に集結した。ブリュッセルまではだいぶある。ところが4日になって、アメリカ軍やイギリス軍がルーヴェンやブリュッセル北のメヘレンに先に仕掛けてきた。全体状況がよくわからないまま、旅団はメヘレンの状況を偵察するよう新しい命令が出た。5日朝になって、じつはルーヴェンがもう保ちそうもないことに気付いて第7軍はあわてたがもう遅い。旅団は知らず知らず前線に出たうえ、自らが包囲の危機にあった。第7軍の下に第81軍団があって、5日のB軍集団現況報告では旅団は第81軍団に配属されたことになっているのに、当の第81軍団から第105装甲旅団を自分の指揮下に入れるよう5日未明に要請を出しているというありさまだった。

 どうにか敵中に突っ込む前に旅団は停止できたようである。だがルーヴェンはすでに連合軍の手に落ち、旅団単独で攻撃するには強力過ぎた。

 Guderian[2001]のmap12(p.593)に示される9月5日前後の戦況図は味わい深い。ティーネンに第105装甲旅団がいて、戦闘団に成り下がった第116装甲師団は少し南のブランション(位置)にいる。両者は軍団境界線でわかれていて、第105装甲旅団は第81軍団(Schack歩兵大将)、第116装甲師団は第74軍団(Straube歩兵大将)の指揮を受けている。おそらくどちらの軍団も数千人しかおらず、それが第7軍のすべてなのだ。

 第7軍はこの時点で、連合軍への東の守りになっていて、戦線は西に対している。連合軍上陸までナンシーにあって空挺部隊の訓練補充を統括していた第1降下猟兵軍は、いったんOKW直轄となっていたが、9月4日にB軍集団幕下の前線司令部としてアルベール運河の防衛にあたった。こちらが北の守りである。

 6日になっても攻撃命令は明確に取り消されず、かといって実行もされなかった。その間に再給油を受けたアメリカ第19軍団がルーヴェンから東へ進出する構えを見せた。ティーネンの南南西、Jodoigne(ジョドワーニュ)では第116装甲師団の装甲車とアメリカ軍の装甲車が撃ち合った。

 ルーヴェンは完全にアメリカ軍の手に落ちていたが、ブリュッセルから東に向かうもう一本の道では、途中のWavre(ワーヴル)の一角に第9SS戦車駆逐大隊の一部が孤立しながら持ちこたえていた。すでにナミュールは失陥していた。

 第81軍団の担当する戦線の幅は10kmほどである。普通の状態なら1個歩兵師団が守るほどの幅だが、おそらく現在の歩兵戦力はそのレベルにも達しない。その南北の端でアメリカ軍東進の兆しがあるので、軍団司令部は包囲を懸念した。あいまいな反撃の意図が命令書に現れ、しかし具体的な指示にはならなかった。だが13時55分、シャック大将はついにボルカー旅団長に対して、旅団の北側を答申するアメリカ軍の側面に「short, rapid frank attack(Haasler[2011],p.62)」をかけるよう命じた。パンター2個中隊が街道を攻撃し、トラック30台、装甲車1台、その他の自動車(stuff car)20台を撃破して10分で攻撃を切り上げた。だがアメリカ軍の前進は全く影響を受けず、そのためなのか適時に報告が上がらなかったためなのか、B軍集団の報告は「旅団から攻撃に関する報告なし」としている。Haaslerは生存者の証言を突き合わせ、攻撃箇所はおそらくBekkevoort(ベッケフォールト)であったろうという。イギリス近衛戦車師団に配属されたオランダ旅団がこの周辺で攻撃を受け、トラックやプレンガンキャリアを失っている。

 この日の17時40分、B軍集団司令部は第105装甲旅団にルーヴェンに向けて反撃するよう命じてきた。もはや敵中横断レベルの無謀な企てである。軍団司令部はそれを取り消すようB軍集団に掛け合い、その間にアメリカ軍の先鋒が動いた。18時33分、軍団は旅団に対し、サントロイデンまで撤退するよう命じてきた。すでに旅団はアメリカ軍の前線より20km西に取り残されていた。

 じつはすでに14時30分、第81軍団は第105装甲旅団に慎重に言葉を選びつつ「ミューズ川を東に渡ってもよい」という命令を出していた。そこで撃ち減らされた3個歩兵師団とともに防衛線を張るのだ。モーデルよりもシャンクの現状判断は厳しかった。

 9月6日は第116装甲師団にとっても諸方から悪い兆候が表れ、懸命の防戦に奔命する日になった。とりわけまずいのは、ミューズ川沿いの都市Huy(ユイ)でアメリカ軍が無傷の橋を確保したことだった。ユイから少し北東に東ベルギーの大都市リュージュがある。交通の要衝でもあって、この都市を守ることを最優先に考えねばならない。夕方になってあわただしく防衛線を引き直す一連の退却命令が出されたのは、そのためだった。

 それはそれとして、第7軍は9月3日以降、第116装甲師団の退却が少しずつ早すぎると考えていた。第7軍の感覚としては、シャルルロワはもっと固守すべき場所だった。6日には第7軍はB軍集団に対し、シュヴェーリンを交代させるべきだと具申した。あとで見るように、モーデルはシュヴェーリンの戦果を好意的にみていたので、具体的な行動をとらなかった。

 相変わらずアメリカ軍の進撃は燃料不足に制約されていたが、8日にはリュージュの南北からアメリカ軍が進撃し、包囲の構えを取った。第116装甲師団はさっさとリュージュの北西まで退却していた。それぞれの所属軍団は7日夜に交替し、第105装甲旅団はミューズ川を渡ることを許された。7日夜から8日未明にかけ、第116装甲師団も勝手にミューズ川を渡った。

「ふたつの擲弾兵連隊はそれぞれ300人ほどになり、戦車は12両しかなかった」第116装甲師団の現状報告は9月7日のものである。アーヘンから西へ20キロの国境の町がマーストリヒトだが、この日の師団の位置はマーストリヒトとリュージュのほぼ中間だった。リュージュは2つの保安大隊と、10両の突撃砲を持つ第319無線操縦戦車中隊が守っており、もはやこの部隊の本来の用法を語るべき時期は過ぎていた。もっとも彼らは橋の爆破(爆薬運搬を含む)という焦眉の任務を負っていたのだが。

 第105装甲旅団とともに第81軍団でミューズ川を守るはずだったのは第47歩兵師団と第275歩兵師団だった。前者も番号が若い新造師団の伝で、1944年2月に編成され、ブーローニュ周辺の砲塔を守る歩兵部隊を統括していた。8月中旬にパリに集められたが、B軍集団に属したままであったためかコルティッツのパリ防衛軍には含まれず、ずっと撤退を続けてきた。後者は第3次ハリコフ攻防戦でぼろぼろになった第223歩兵師団をもとに1943年11月に編成が始まった。同様にして1943年11~12月に再建された16個歩兵師団(第21波および第22波)の中にはオマハ・ビーチで壊滅した第352歩兵師団もいる。

 上記のように第105装甲旅団は第74軍団に転属になった。新しい僚友は第347歩兵師団、第89歩兵師団だった。前者はノルマンディー上陸まではオランダで、北海に面したエイマイデンの海岸陣地を守っていた。どういう投入のされ方をしたものか、この時点では2個中隊相当の歩兵でしかなかった。後者は1944年1月の編成だから充足度は推して知るべしで、第15軍のもとでルアーブルの海岸を守っていたが、ファレーズ・ポケットに包囲されて第116装甲師団とともに逃げ延びていた。

 フランスから逃げ延びてきた第9装甲師団。バグラチオン作戦で壊滅し、8月に再建が始まったばかりの第12歩兵師団(擲弾兵師団)。西方軍は最後の予備をこの戦線へ向けたが、すぐには到着しないというありさまだった。

 9月8日、リェージュ西岸は掃討され、橋と艀の処分は完全ではなく、アメリカ軍は街全体の確保にかかっていた。第105装甲旅団は燃料不足でリェージュの東にあるHarve(エルヴ)にいた。同日到着した第9装甲師団は、ほぼすべての車両を失っていた。もっとも兵数も1500を少し超える程度だったのだが。すぐ師団はB軍集団予備に戻され、アーヘンで補充を受けるべく後退した。ルントシュテットは緊急に5個ないし10個師団の増援が必要だと上申し、「7~8個大隊が120kmの戦線を支えている」というモーデルの第7軍現状評価を添えた。ヨードルもアーヘンまで第7軍を後退させることに傾いたが、ヒトラーは認めなかった。

 9月9日朝までに、リュージュからHaaslerによると6両の突撃砲など守備隊の残余が脱出した。Guderianによると第319無線操縦戦車中隊は「戦闘可能な3両の突撃砲」とともに第116装甲師団の指揮下に入った。またブルムベアを装備する第217突撃大隊もその中にいた。Guderianは触れていないが、数日後に第116装甲旅団の一部とブルムベアが共に行動しているので、これも師団の指揮下に入ったであろう。

 アメリカ軍は同日、リュージュを超えて前進してきた。燃料不足に加え、おそらく昼間移動の困難さから、旅団は4つのグループに分かれ、ひとまとまりの機動ができなかった。Verviers(ベルヴィエ)がアメリカ軍の手に落ちたので、旅団はLimburg(リンブルク)に集結させたとシュヴェーリンは報告した。すでに戦域はアーヘンの郊外と言ってもよい。アーヘンに向かう道路をどうやってブロックするかという戦いになっていた。エルヴの少し東、Battice(バティス)で第105装甲旅団とアメリカ軍の小競り合いが起こっていた。ヴェルヴィエの西、Banneux(バヌー)でも戦車戦が起きた。戦闘だけでなく、この日に旅団は少なくとも4両のパンターとIV号駆逐戦車を燃料不足のため爆破処分した。少なくとも当日の朝からは共同して戦っていたようだが、Haaslerによれば9月9日20時30分(Guderianによれば50分)、第105装甲旅団は正式に第116装甲師団の戦術的指揮下に入った。

 後方で再編していた第9・第10SS装甲師団は9月7日から8日にかけて、1個歩兵大隊ずつと支援兵科部隊をいくらかずつ第7軍に提供させられた。この戦闘団は2個歩兵大隊に加え、砲兵3個中隊を含んでいた。

 空軍は1944年9月から、Luftwaffen-Festungs-Bataillon(空軍要塞大隊)を急きょ編成した。最初の編成命令は9月3日に出て、9月下旬までに39個大隊の編成が命令されている。当初はすべてが西方要塞の強化に使われる予定だったが、第21以降は降下猟兵連隊の再建に使われている。兵員の転入元は判明する限りほとんどがパイロット訓練学校とその関連部隊である。ともあれこれらが大慌てで西方要塞に注ぎ込まれた。

 Guderian[2001]は、師団副官(IIaとよく表記される。師団司令部で士官の人事をつかさどる)のVogelsang少佐がつけていた日記を引用して、第13空軍要塞大隊が師団に編入された時(書類上の配属は9月17日、実際に編入作業が始まったのは9月19日ごろ)のことを次のように説明している。「この部隊は解散された爆撃隊のパイロットと地上要員たちで、近頃絶えて見なかった若い兵士がいるので見栄えはよかった。多くが何らかの重要な分野の専門家だったが歩兵としての訓練はほとんどないので、多くは歴戦の歩兵に混ぜて配置した」(pp.173-174)。なおCarlsen[2010]によると、この大隊は航空技術者学校のスタッフから成っていて直接爆撃隊から人員を取ってはいない。1944年に入ると爆撃航空団の統廃合が行われ、I/KG1、KG3など多くの部隊が廃止の憂き目にあっているので、爆撃隊から航空技術者学校に転属させられたと思ったら今度は歩兵……というのが真相であろう。

 ただしHaasler[2011]によると、第105装甲旅団に配属され9月20日の現況報告で289名に減少していた第8空軍要塞大隊は、航空機用のMG15を31丁とMG42を2丁保有している。これは第105装甲旅団関係のどの大隊と比較しても多い数字である。この記事のために細かい戦闘記録を見ていて、空軍野戦師団と違って空軍要塞大隊は陸軍部隊に劣らない粘りを見せているように思うのだが、機関銃に恵まれているせいかもしれない。もっとも289名のうち、217名が2日後までに死傷した(同書p.49)。

アーヘン1944その2に続く

参照文献

  • Carlsen, Sven[2010]Deutsche Luftwaffenfestungsbattalione 1944, Helios
  • Delaforce, Patrick[2001]Smashing the Atrantic Wall: The Destruction of Hitler's Coastal Fortress,Cassell & Co.
  • Guderian, Heintz Guenter[2001]From Normandy to the Ruhr: with the 116th Panzer Division in World War II,Aberjona Press
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  • Nevenkin, Kamen[2008]Fire Brigades: The Panzer Divisions 1943-1945,J.J.Fedorowicz
  • Whiting, Charles[1976]Bloody Aachen, Stein and Day(NY)

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Last-modified: 2017-08-31 (木) 04:29:39 (569d)