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欧州戦記資料

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「軍隊指揮」をめぐって

『軍隊指揮:ドイツ国防軍戦闘教範』(旧日本陸軍・陸軍大学校訳、大木毅監修、作品社)は膨大な情報を持っているが、今まで断片的に知られていたことをつなぎ合わせる糊になる記述が多い。気が付く限り、それらを書いて行こうと思う。

全体について

今回の復刻版は、1921/25年版と1933/34年版のそれぞれについて、当時の陸軍大学校スタッフが訳したものの合本である。1921/25年版の前半部分は国会図書館デジタルライブラリーに収められている。

 国会図書館デジタルライブラリーの「偕行社版」は第11章までしかない。偕行文庫には「偕行社」のものが2冊あるが、同じ1922年発行であることから、たぶん同一であろう。第12章以降と付録は、復刻版によると1926年に発行された。

 面白いことに、「偕行社版」の『独国連合兵種の指揮及戦闘 』には収録されなかった分まで目次に章名が並んでいるのだが、実際の(今回復刻された)第14章「毒ガス戦」が意図的に省かれ、第15章以降が繰り上がって全17章のように目次が書かれている。

戦車の扱い

 1933/34年版「軍隊指揮」はベック参謀総長(就任以前を含む)の指導の下に編まれたが、のちにヒトラー暗殺未遂事件に関わるシュチュルプナーゲルも気鋭の参謀中佐、のち大佐として草稿作りに関わった。ルッツ交通兵総監の前任者として、グデーリアンにその戦車部隊への慎重姿勢を苦々しく書かれたシュチュルプナーゲル少将とは、1772年に死んだひいひいじいちゃんが共通と言う遠縁で、別人である。「軍隊指揮」が戦車問題に深くかかわった士官たちも加わって書かれたのか、あまりはっきりしない。1922/25年版に至っては、誰も前大戦の知識(と戦後に外国から漏れ伝わる知識)しか持っていなかったことは間違いない。ただ1933/34年版「軍隊指揮」の編さんはヒトラー政権成立前にかなり進んでいたと考えられることには留意したい。

 1920年代、「前大戦における戦車開発と戦車戦のリーダー」は英仏であった。イギリスはフラーの構想に乗って、3ポンド(47mm)戦車砲を積んだ中戦車Mk.IIを中心に据え、もっと大型の戦車も構想された。これらを補完するものとして砲塔のない機関銃だけのカーデン・ロイド豆戦車があらわれ、1920年代も末頃になると回転砲塔のついたもう少し大きい軽戦車が作られ、騎兵科の機械化に使われるようになった。フランスは貫徹力の乏しい37mm砲(ピュトー砲)を備えるルノーFT軽戦車が大量に余っていて、対戦車能力の高い47ミリ砲は重戦車が持つことになり、1930年代に入ると騎兵科のソミュアS35戦車もこれを装備した。こうして事情はそれぞれだが、英仏は「対戦車能力のない軽戦車」と「対戦車能力のある少数で高価な中戦車~重戦車」を持つようになった。イギリスについてはHarris[1996]、フランスについてはDoughty[1986]が参考になる。

 1922/25年版(第525~)、1933/34年版(第729~)の戦車に関する一般的な理解は、概ねこうした当時の状況や、前大戦での経験を踏まえたものである。1922/25年版・第534で「戦車は攻撃用兵器なり」と言い切っているのも、第1次大戦でもっぱらそのように使われたからである。もっと言えば、故障しがちな戦車をなだめすかして出撃位置の近くに集め、そこから順調に走り出せるよう整備するのに時間がかかるので、敵の攻撃を読んで、いい位置で待ち受けることは難しかったのである。1922/25年版・第362「[追撃または反撃のための]予備隊には砲兵及び戦車を配するを要す」とあるけれども、こちらに攻撃予定のない場所では、予備隊の戦車も広く薄い配分になってしまう。本来の使い方ではないけれども、捕獲戦車やわずかなA7V戦車を活用したドイツ軍の実感として、あるとないでは大違い……であったということだろう。

 ところが、戦車に対する防御については、1922/25年版(第553~560)と1933/34年版(第751~758)で大きく異なっている。1922/25年版では歩兵部隊の持つ対戦車兵器として「対戦車銃」や「平射迫撃砲」が挙げられている。ドイツ軍は第1次大戦末期、13.2ミリ対戦車銃を実用化していたし、当時ドイツが使っていたミーネンヴェルファーは我々が「迫撃砲」として知っているストークス砲と違って、信管を使って点火するものであり、撃針の上に弾を落とさなくていいので水平に近く構えることができた。結局ドイツ陸軍は、対戦車銃は第2次大戦が始まってからいくらか配備したものの、戦間期にはいったん配備をやめてしまったし、ミーネンヴェルファーは早々に諦めて諸外国の迫撃砲を真似することにした。そして1922/25年版は、対戦車兵器のリストに戦車そのものを含めていない。

 我々がPAK36として知っている37mm対戦車砲で、1936年に出来上がったのは「金属製車輪でサスペンションがあり、自動車で速く牽引しても破損しない砲架」であって、砲そのものは木製車輪(輓馬用)に乗せて1928年から納品されていた。「秘密のアレ」に型番をつけないことにしたのか、型番はあったが秘密にしすぎて失伝したのかは知らない。そして1933/34年版を編さんするころ、LaS(軽トラクター)という秘匿名称の37mm砲搭載試作戦車は、軟鋼製の実物大模型的なものがちょうど完成するころであった。

 その技術的到達点を踏まえて、1933/34年版は装甲車両に対抗するには「わが装甲戦闘車両を第一とし、さらに対戦車火器および砲兵を充当す」(第754)と言い切る。「敵戦車に対抗できる戦車の数で勝負だよ兄貴」という認識は、じつはこの当時としては斬新である。英仏はそんなことをしておらず、戦車を打ち破れる戦車は高価で少数なのだから。それを言い切ったのがベックのチーム……というのは注目してよい。

 しかしながら……敵もまた同じことを考え、攻撃となれば圧倒できる数の戦車を集めてくる(第756)。がんばるしかないが、戦車対戦車で押し負けることは勘定に入れなければならない。砲兵は距離のあるうちになるべく敵戦車戦力を削り(第757)、歩兵部隊直属の対戦車火器[例えば歩兵連隊の対戦車砲]はいい陣地を確保して、接近する敵戦車に抵抗する(第757)。突破されたら、師団の対戦車部隊(対戦車大隊、あるいは後の戦車駆逐大隊)が食い止める。むしろ敵襲後の推移を読んで、独断専行も含めていい位置を先に占めることが期待された。そして危機がここまで深まれば、参加できる砲兵と高射砲もまた、対戦車戦闘に参加すべきものとされた(第758)。

 ベックとグデーリアンの対立は、攻撃のためになるべく多くの戦車を集中させるか、自ら攻勢に出るための戦車は一部にとどめ、あちこちに反撃用戦力として戦車大隊を控えさせるかと言う方針の違いだった。このあたりはJentz『Panzer Truppen』にある、ベック辞職前後の計画変化をみると興味深い。もっとはっきり言えば、「ドイツが攻撃力を持つ」こと自体、ヒトラーをギャンブルに誘って、ドイツを泥沼の対英仏戦争に巻き込むとベックは考えたので、ドイツ陸軍を「守備力はあるが攻撃力はない軍隊」になるべく変えて行こうとしたのである。

鉄道について

 ワイマール憲法第89条~第90条は、ライヒ政府が公共交通機関たる鉄道を順次取得し、一元管理すべきことを定めている。もともと各領邦がバラバラに鉄道を持っていたうえ、プロイセン王国内ではドイツ統一当時、鉄道総延長の半分以上が私鉄だった。それをここへきて、断固として統一に踏み切ったのは、賠償に運行収入(と、鉄道利用に課される税)を宛てたいためだった。

 Rohde[1971]によると、第1次大戦の動員直後には、ダイヤ全体を陸軍が用意したもので置き換え、個々に必要が生じると、そのダイヤに載っている特定の列車を割り当てた。多くの領邦が持つ多くの鉄道がそれぞれのリソースを持っていたのでは、矛盾のないダイヤを1セット組むだけで膨大なエネルギーを要し、部分的な変更がどう波及するかわかったものではなかったことは想像できる。これは数か月続き、軍需生産を含む民間需要は空いた列車で細々と用を足すしかなかった。「いや、ああいうやりかたは無理よね」というところから戦後の軍による鉄道利用研究は始まった。

 輸送計画はだんだん柔軟なものになり、最重要目標(典型的には、特定の方向に特定部隊を前進させること)と副次的な目標を併記し、副次的な目標もなるべく満たすことが求められた。第1次大戦までと比べて柔軟な半面、細部は現場調整に任されるものになったし、参謀本部鉄道課がある程度作戦/動員計画を事前に知らされ、それとリンクした計画を立てるものになって行った。おそらく電信・電話・伝令(自動車、バイク)の事情が進歩して、ダイヤグラムや時刻表を迅速に印刷して配布しやすくなったせいもあるだろう。

 第1次大戦では、陸軍参謀本部鉄道課長は野戦輸送総監(Chef des Feldeisenbahnwesens)を併任し、後者の肩書で大本営(OHL)に直属した。つまり参謀総長の頭越しに政治的要求をつきつけられる宿命を負っていた。第2次大戦においても輸送総監(Chef des Transportwesens)と名称が変わっただけで、やはりOKWに併任され、命令が直接降りてきた。その権限は鉄道、道路、内国水運に及んだが、バルト海にいくらかあった外航水運は海軍の監督下にあった。また大戦が始まるまで鉄道工兵総監は工兵総監が兼任し、鉄道工兵総監参謀長が事実上のトップだったが、1939年8月にこの参謀長が専任の総監となって鉄道課長の指揮を受けるものとされ、鉄道部隊司令官(Befehlshaber der Eisenbahntruppen)と名称も少し変わった。

 1920年のライヒスバーン発足時から、輸送将校(Transportoffizier)が概ね鉄道管理区(あるいは鉄道管理局、Reichsbahndirektion)ごとに任じられ、その下に鉄道業界から鉄道全権委員(Bahnbevollmächtigter fur militarische Angelegenheiten)がつけられて、鉄道人たちはこのBbvを通じて指示を受けた。

 1935年には鉄道管理区の上に(管理区ひとつだけで、一致することもある)Transportbezirkeがつくられ、その軍事面での指揮官をTransportverbindungsoffizierと称したが輸送将校の兼任であることが多かった。軍管区はこの軍拡期間に何度も線引きが変わったが、建前としては軍管区内のTransportbezirkeを指揮出来た。

 紛らわしいが、軍と軍集団司令部につけられた輸送関係の指揮官はbevollmächtigter Transportoffizierと呼ばれた。1933/34年版第929の「司令部の輸送係将校」はこちらであろう。地区割りのTransportoffizierは1937年にTransportkommandanturと改称され、そのもとにあったTransportkommissionも協議の場から指示伝達の場に変質した。もちろん1934年の時点ではこんな言葉はない。

 なお、第2次大戦のTransportkommandanturに相当する地域司令部は、第1次大戦ではLinienkommandanturと呼ばれた。1922/25年版第675の線区委員はこの古い言い方のように思われる。だからこの線区委員は後のTransportkommandanturになっていく人たちであり、第674の「輸送将校」はライヒスヴェーアの師団司令部などに存在し、bevollmächtigter Transportoffizierになっていった人たちだと思われる。

 Rohde[1971]によると、1926年の「Nollet-Note」のせいで全般に鉄道関係の役職があいまいなものに改名され、また参謀本部鉄道課(5課)はしばらく作戦課(1課)の一部として縮小された。Charles Nolletは連合国の条約履行監視団を長く率いていた将軍だから、ドイツ軍務局の鉄道課が大規模な組織なのは戦争準備の疑いがあるとか、書簡か何かで懸念を示したのではないかと思う。グデーリアンが作戦課で自動車輸送の計画に携わっていたのはちょうどこのころである。

段列と行李について

 騎士たちと戦場の主役が入れ替わるころの傭兵隊では、従軍商人(英語でsutler、ドイツ語でmarketender)の隊列が部隊の後をついて回り、衣食の調達や各種サービスを行った。これが行李の由来である。これに対して段列(縦列)は禁制品たる武器弾薬を扱う輸送隊であり、原則として民間に任せるものではなかった。

 日本陸軍はある時期までは大行李と小行李を区別するなど、ドイツ風の分業を真似ようとしたのだが、途中で面倒になったのか(だいたい、昔の経緯など関係ないのだし)段列を持つ部隊には行李の仕事まで段列にやらせるようになってしまった。

 ドイツでは師団司令部そのものを含めて、どんな小部隊にも行李はあった。逆に師団レベルから上が持っている輸送部隊は段列(縦列)であった。砲兵部隊は、「弾薬小隊」といった弾薬の輸送・保管にあたる小部隊を内部に持っていて、それらは原則として砲兵部隊と共に進んだ。1933/34年版第983では、こうした部隊内の弾薬輸送隊も「軽縦列」に含めているようである。軍の物資集積所から師団の交付所までは師団の段列(縦列)が運び、そこから各部隊には武器・弾薬であれば師団の軽縦列が運び、給養品(食料や生活用品)であれば行李の一部が交付所まで取りに来た。ただし、1933/34年版第983のように「軽縦列」を定義するなら、規定上は師団直属のleichter kolonneだけでなく、砲兵の弾薬小隊などが交付所まで取りに来ることも想定されていたと考えるべきか。

 弾薬補充の系統図である1933/34年版、付録第5・その1に「戦闘車両」という言葉が出て来るが、これは戦車や装甲車のことではなくて、1933/34年版第987に解説されているように、戦闘行李の中で物資を運ぶ馬車やトラックのことである。

 系統図を見ると、戦闘車両から弾薬が配られることもあり、「担送」を経ることもある。つまり「戦闘車両」を最前線に近づけることには一長一短があるのである。貴重で目立つ車両を塹壕の近くに進めたくないとしたら、人が持っていくしかない。だがもともと行李と言うのは衣食の世話をするものであって、食料を背負って届ける器具はあっても、重い小銃弾や手榴弾を輸送する手段がない。1941年から軍用リヤカーのIf.8が配備されていくのは、このギャップをようやく埋めるものであったと考えられる。

 装甲師団であれば軽縦列(小自動車縦列)は積載能力30トン、縦列(大自動車縦列)は60トンであった(1933/34年版、付録第4・その2)。3トントラックだったら10両と20両だが、規格違いの車両なら積載能力に車両数とドライバーの人数を合わせた。これらが標準的には300トン分配属されているのが大戦初期の優良装甲師団だった。ただし、こうした段列(縦列)は平時に駐屯している部隊には無用のものなので、戦時動員がかかって初めて編成されるものが多かった。オーストリア進駐でグデーリアンが現地のガソリンスタンドに協力を仰がねばならなかったのは、まさにこれがうまく行かなかったせいであった。

攻撃について

 1933/34年版・第329は、「諸兵種協同の目的」を歩兵の突入と抵抗破砕で戦闘を終わらせることだとしたうえで、「右の目的は、敵の砲兵を奪取するか、もしくは、潰走のやむなきに至らしめたるとき」達成されるのだと説く。クラウゼヴィッツが「戦勝は土地を取った時ではなく砲を取ったとき決まる」と言っていたのとここのところは変わらない。そして、歩兵がこれをやるのだという原則は、たぶん第2次大戦を振り返っても、揺るがなかった。むしろ大戦中に、単独突破して歩兵に守られていない敵戦車を至近距離から歩兵が叩く手段は、次々に追加されたのである。

 陣地攻撃にも、「要すれば」戦車が参加するものとされた(1933/34年版・第391)。しかし「有力なる機械化部隊」には追撃が「絶好の任務」であるとされた(同・第413)。追撃においては一般に、「敵を包翼し、超越し、地障に敵の退路を遮断し、もしは[もしくは?原文ママ]敵を後方連絡線以外に圧迫する」と示された(同・第412)。

 つまり、追撃によって「砲を奪う」条件が整うのである。なにも「砲を奪う」ことに限らない。敗走した結果、弾薬がないとか食料がないとか、何かを失ってしまって戦闘を続けられない状態になってくれればよい。それには敵に先回りし、通せんぼして、物資・器材を持ったまま脱出することを阻めばよいのである。橋や谷間と言ったボトルネックを押さえられればわかりやすいが、見晴らしの良い丘に銃座を据えて、周囲を移動できなくすればボトルネックの代わりになる。

 ただし戦車の攻撃目標は「第一に敵の歩兵、とくに、その重火器、砲兵及びその観測所、戦闘司令所、予備隊戦車、後方部隊及び後方施設」とされていた(同・第740)。つまり「地点」に到達してとどまるようなイメージではなく、敵を求めて発砲し、実際の損失を与えることが求められていた。戦車を固定して使用するのは例外だとも念を押されていた(同・第745)。これはフラーの「Plan1919」や、大戦直後の著作にあるイメージを踏襲しているように思われる。すでに述べたように、1930年代後半のベックはドイツ戦車の多くにこうした攻撃的な編成を取らせないよう努力した節があるのだが、「軍隊指揮」に盛り込まれた原則では、戦車を攻撃兵器として忙しく動き回らせることがうたわれていた。もちろん追撃には騎兵も、軽快部隊(自動車化歩兵/オートバイ歩兵など)も、歩兵自身も参加する。戦車の相対的な強みが、その攻撃目標として上記のものを優先させると言うことである。

 追撃の一般論から戦車の個別論へ、大きなジャンプがあったとみるか、バリエーション程度の差しかないと見るか。後者であれば、ドイツ軍は革新的な「電撃戦」などやらなかったともいえる。第1次大戦の突撃隊戦法(浸透戦術と言うのはフランス軍がつけた名前である)に戦車を加えただけで、基本的には同じことをしたと。

 グデーリアンは戦車の「集中使用」を強調するが、「軍隊指揮」でも「決戦時期に際し……全兵力を集中するを要す」とある(同・第736)。これは1921/25年版・第535「戦車は……急襲的に、集団的に、広正面において同時的に使用し、かつ、豊富なる予備を後置して……」を踏襲したもので、カンブレーの(フラーらによっていささか理想化された)戦いを念頭に置いた記述と考えられる。グデーリアンはこれを、「分散配属すると、戦車の局所優勢が取れないのだ」と説明する(中央公論新社版『電撃戦』上巻69~71頁)。『電撃戦』におけるグデーリアンの「悪い例」は歩兵師団に建制の戦車大隊を割り当ててしまう硬直的なもので、ベックたちが1938年ごろに予定していたように、軍直轄の戦車旅団を多数配備するならば地形の適否にも柔軟に対処でき、グデーリアンが言うほど悪いものとも思えない。じつは実際の装甲師団が1940年以降に挙げた戦果は、歩兵や砲兵との協同が不可欠であったものが多く、固定的なチームとして普段から共同訓練を積み重ねておくことに大きな利点があったのだが、どうもグデーリアンはそのことを戦前には強く意識していなかったように思える。

戦車と随伴歩兵について

 もともと第1次大戦の戦車は歩兵との併進を目指しながらなかなかうまく行かず、菱形戦車mark V*に軽機関銃チームを便乗させ前進地点で降ろしたり、兵員輸送車型菱形戦車のmark IXが作られたりした。1921/25年版第559は、肉薄した歩兵が戦車を攻撃する様々な方法を示したのち、地形を利用できれば分散した歩兵が戦車を撃破するチャンスはあるが、戦車が集まっていると歩兵側の損害が大きくなると述べている。逆に自分の戦車に協力する歩兵は、敵の砲撃から巻き添えを食わない程度に戦車のすぐ後ろにつき、戦車の側面に見つかった銃座などを「歩兵用重火器」(迫撃砲ないし軽機関銃のことか。第2次大戦初期までドイツ歩兵は50mm軽迫撃砲を持っていた)で攻撃することとなっていた(同・第546~547)。

 1931年に編成が始まったフランス軍のDLMは、騎兵師団を部分的に機械化したものだったが、世界で広く模倣された「軽師団」の元祖であった。歩兵に相当する所属部隊はオートバイかハーフトラックを与えられていた。

 1933/34年版・第720は、騎兵の運用を述べる文脈で「自動車搭載の歩兵」について述べている。「軍騎兵の火力を増大す」るものであり、「騎兵部隊の解放、収容、もしは決戦方面に使用せらるる」ものとしている。一般に、騎兵が銃撃戦に巻き込まれたら馬は後方に下げねばならず、2頭につき1名の兵が馬を見ていなければならず、人数の割に火力は発揮できないものだった。逆に、こうなってしまった騎兵は本来の機動性を失っているので「解放、収容」が必要なのだった。同項目では、降車は援護の下に(敵から見えないところで……と言うことだろう)行うようにと述べている。DLMや、のちに他の騎兵師団が改組されたDLCにいるハーフトラックは装甲されたものではなかったから、フランス軍もこの点は同様に考えていただろう。ロレーヌ37L牽引車にはある程度の装甲があったが、これは当面、前線への燃料補給車と考えられていた。装甲兵員輸送車に発展させる計画もあったが、37Lの試作車両ができた1937年にはすでにドイツのSd.Kfz.251系列に関する情報がいくらか入っていたであろうから、逆にドイツを参考にドクトリンを改めたかもしれない。

 自転車隊(1933/34年版・第721)および自動自転車狙撃部隊(1933/34年版・第722)は、このころ騎兵の管轄となった自転車化歩兵と、騎兵起源と言えなくもないオートバイ歩兵について述べている。最初の3つの装甲師団については、第16騎兵連隊を解体し、3つのオートバイ歩兵大隊としてそれぞれ配属した経緯がある。その後に追加されたオートバイ大隊は歩兵部隊由来だったり、(クルップ・プロッツトラックなどに乗っていた)軍直轄重機関銃大隊の改編であったり、騎兵と関係ないものの方が多い。「軍隊指揮」では「重要なる予備隊」「道路近傍の要点の占領に適す」などと述べられ、ポーランド戦以降にそうだったように、先頭を切って進んでいくようには書かれていない。これはむしろ、先頭を切るべき軍直轄騎兵集団が雲散霧消してしまったことの結果とみるべきかもしれない。

 こうしてみると、「軍隊指揮」はドイツ戦車の運用について、多くのことを既に決めてしまっている。むしろグデーリアンの言葉だと我々が思い込んでいたものが、「軍隊指揮」からの借りものであったようにも感じられる。ところが「軍隊指揮」にまったく触れられていない要素がひとつだけある。それは、装甲兵員輸送車部隊の運用である。別稿で取り上げたように、1941年ごろのコンセプトとしては、装甲兵員輸送車部隊はかつての菱形戦車のfemale tankのように、機関銃(と多くの目、良好な視界)でソフト・ターゲットを排除することを期待されていた。ということは、戦車がスピードアップして歩兵に追随できなくなったことを踏まえ、1921/25年版・第546~547の歩兵による戦車支援が(乗車したままの)装甲兵員輸送車部隊に引き継がれたと考えることもできよう。そう考えると、Sd.Kfz.250/251はAPCではなく、すでにIFVであった……と言っては言い過ぎだろうか。

弾薬箱について

 1933/34年版・第982では、「補給縦列の搭載法は、軽縦列および糧食行李の積載法と異なりたる方針に従って、行われあれば」軍→師団交付所の輸送を担ったトラックから師団内部用のトラックに物資の積み替えをするだけではうまくいかないから、まず師団交付所に下ろせと言っている。これはおそらく、荷姿の問題である。

 一般に、薬莢・火薬といった弾薬のパーツは弾薬廠(Munitionsanstalt)に持ち込まれ(内製パーツもあったろうが)、撃てる状態の弾薬に組み立てられる。小銃弾は15発入りの紙箱に詰められるし、小分けを考えないわけではないのだが、鉄道貨車への弾薬・武器の荷捌きをした経験者の手記によるとひとつの箱は2ツェントナー(約100kg)にもなる[おそらくこれは主観的なもので、小銃弾1発は報告書で重量に直すときは15発が500gとみなされた。一般的な1500発入りPatronenkasten 88は50kgということになる。現代に売られている7.92×57mm銃弾はこの20%くらい軽いものがあり、火薬が同じではないとしても、報告書では木箱込みの重量で計算していたのかもしれない。ともあれ小銃用弾薬の一般的な長距離輸送用の荷姿は50~55kgと思われ、2ツェントナーはやや誇張と考えられる]。プラモデルでよく見られる小型で金属製の弾薬箱(手榴弾、迫撃砲弾など手提げ式のものはHandkofferという)のまま輸送することは困難であった。だから「詰め替え」が必要だったし、その箱を用意するのはしばしば師団レベルの裁量によったようである。また逆に、小分けしてから送る(ローカルで特定時期の)工夫が奏功した例もあったようである。

参照文献

  • Doughty,Robert A. [1986],The Seeds of Disaster: The Development of French Army Doctrine, 1919-39 (Stackpole Military History Series)
  • Harris,J.P. [1996], Men, ideas and tanks: British military thought and armored forces, 1903-1939,Manchester Univ. Press
  • Jentz, Thomas L.[1996],『Panzer Truppen vol 1.』,Shiffer
  • Rohde,Horst[1971],Das Deutsche Wehrmacht-Transportwesen im Zweiten Weltkrieg: Entstehung-Organisation-Aufgaben,Deutsche Verlags-Anstalt

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Last-modified: 2018-08-24 (金) 04:34:10 (211d)