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欧州戦記資料

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ドイツ軍の後方

 第二次大戦期ドイツ軍の補給、輸送、修理に関する資料と読み物を集めようと思っています。

補給

概説:補給

 戦時において、国防軍兵器局(Heereswaffenamt)は予備軍司令官(Chef der Heeresrüstung und Befehlshaber des Ersatzheeres)の指揮下に入る(U.S.War Dept.[1990],p.281)。

 この予備軍司令官として最も有名な人物は、ヒトラー暗殺計画に関与したフロム上級大将だろう。開戦時から計画関与発覚まで務めていた。

 予備軍司令官は旧日本陸軍でいう教育総監としての権限を持ち、総監たちの助けを得て、兵士・下士官・士官の訓練全般について責任を持つ。さらに本国における補給システムの長でもある。戦時の予備軍司令官は何よりもまず、本国の訓練部隊と実際に戦争をする野戦軍のあいだで、物資の配分を決めなければならない。国防軍兵器局はそれが済んだ後、各野戦部隊に物資を割り振る主役を演じるのである。国防軍兵器局は研究や外部調達・検収部門といった、日本陸軍の陸軍兵器廠・被服廠などにあたる機能も持っている。

 最末端の徴募事務所Wehrmeldeamtに至る仕組みは、例えばこの第IX軍管区の例のように各軍管区にあったが、そこに配属された士官の補任年などを見ていると、1935年に一斉に作られたようである。徴兵制に伴う組織だから考えてみると当然である。

 参謀本部における補給の最高責任者は後方総監(General Quartermeister)であり、その基本的な任務は指揮系統を伝って流れてくる報告による現状把握と、国防軍兵器局への要求伝達であった。

 軍集団司令部の補給担当参謀は補給の細部については重要な決定をしない。その主要任務は、交通線を守る部隊の適切な配置による安全確保であった。(U.S.War Dept.)ただし、ルーゲの『ノルマンディのロンメル』にはB軍集団の補給参謀が「仕事がないから」という理由で転任させられるシーンがある。

 軍司令部は物資を受け取り、集積し、送り出す作業をつかさどった。食料、衣料、衛生材料、獣医・厩舎用品の要求は軍司令部から直接本国の対応する組織に送られ、弾薬・装備の要求は後方総監に送られた。

 軍団司令部の補給参謀はは物資・装備の現員・欠員を報告する。U.S.War Dept.は、最近になって(おそらく1944年ごろに)一部の物資が軍団の集積所に届き、軍団の補給参謀がそこからの物資分配を監督する動きがある、としている。

 例えばドイツ・アフリカ軍団やラップランドの山岳軍団のように、軍団が最寄りの軍司令部から遠く離れたところで作戦行動に入る場合、否応なく軍団は集積所を持ったと思われる。ただしこのような状態は1年と続かず、その地域に軍司令部が置かれた。なぜこの時期にアメリカ軍が「軍団司令部が集積所を持つ」動きに気づいたのか憶測するほかない。

 1944年のアンツィオ上陸によってもともと第10軍と第14軍しかないドイツC軍集団(南方軍)は、増援を受け入れた上にあっちにもこっちにも補給を送らねばならなくなり、1944年9月ごろに第14軍の第76装甲軍団は一時的に9個師団を指揮下に置いていた。ふつう1個軍団は3個師団なのだから、第76装甲軍団は1個軍に匹敵する人数を養うために軍司令部並みの補給活動をやっていた可能性が高い。U.S.War Dept.はこのことを言っているのかもしれない。

装備品の補給(1)国内管理組織

 Lexikon der WehrmachtとU.S.War Dept.によると、国防軍兵器局の国内物資集積システムは、地域司令部が近隣の倉庫・弾薬庫をコントロールする構造になっていた。まず地域司令部システムから見ていこう。

 基本的に地域物資司令部(Fz.Kdo. Feldzeug Kommando)は本国の軍管区ごとにあって、その上に1941年9月以降、3つの地域グループ司令部があった。

  • Feldzeuggruppe 1(ベルリン)

I II III VIII XX XXIの6つの軍管区とFeldzeug-Kommando Generalgouvernement(ポーランド総督領地域物資司令部、1942年6月~)。ポーランド総督領とはドイツが自領に併合しなかったポーランド中央部を指す。第XX・XXI軍管区も占領・併合したポーランド西部なので、「北東ドイツとポーランドグループ」と考えればよい。

  • Feldzeuggruppe 2(カッセル)

VI IX X XI XII XXXの5つの軍管区と、軍管区に対応しないXXX。「北西ドイツグループ」である。XXXはU.S.War Dept.(p.282)によるともっぱら中央ドイツに点在する地下弾薬庫の管理に当たっていた。

  • Feldzeuggruppe 3(ミュンヘン)

IV V VII XIII XVII XVIII の6つの軍管区と、ベーメン・メーレン自治領(チェコの大部分)を統括するグループ。

 以上の軍管区・総督領にはそれぞれFeldzeugkommando(地域物資司令部)があった。これに準ずる司令部としてOberfeldzeugstab(上級地域物資事務所)があり、ベルギー、オランダ、東フランス(のちWestと改称)、西フランス、パリ、南西(降伏後のイタリア)の6つがあった。さらに地域でなく番号のついたOberfeldzeugstabが6つあり、番号順に東部戦線の北方、中央、南方軍集団とバルカン、セルビアで物資集積を管理した。1942年夏にOberfeldzeugstab 1が南方のB軍集団に転出すると、新たにその空白地にOberfeldzeugstab 6が作られた。

 このほか、Feldzeugstab Afrikaなど多数の地域物資事務所が作られた。

 軍管区司令部も予備軍司令部の指揮下にあるが、軍管区と地域物資司令部のあいだに命令関係はなく、独立していた。Feldzeug-Inspekteur des Ersatzheeresという役職があり、おそらく国防軍兵器局を補給面で指揮する役目だったのであろう。

装備品の補給(2)国内倉庫・工場

 前項で述べた地域物資司令部などが、その地域の陸軍倉庫(Heereszeugaemter HZa)または陸軍分倉庫(Heeresnebenzeugaemter HNZa)をコントロールし、野戦軍・予備軍両方の需要に対応した。一般的には、これらは倉庫・修理/生産工場の両方を持っていたが、一方の比重が極めて大きいものもあり、同一軍管区に複数が存在することも多かった。特定の物品がもっぱらひとつの倉庫に集中することもあった。衣料、弾薬、食料、燃料、人馬の衛生材料などは専用の補給ルートがあるので、HZa/HNZaを介さない。

 戦車関連の部品はマグデブルクのHPZa(Heerespanzernebenzeugaemter)、またはフランクフルト・アム・デア・オーデル、ノイブルク、ビーレフェルト、ブレスラウ、オッペルン、カッセル、アルテングラボウ(マグデブルクの近く)、オルミュッツのHPNZaを通じて補給された。同様にベルリンには通信機材専門のHZaNachr?があった。個別の物品について、それぞれのHZaは担当区域を持っており、特殊なものはごく少数のHZaが全国の需要に対応する、などということもあったらしい。

 弾薬についてもHMaとHNMaがドイツ全土にあった。これらは薬莢の回収・再充填や部品生産も行っていた。

軍管区諸廠(国内)

 いくつかの物資を受け入れ、送り出す組織は軍管区司令部に属している。U.S.War Dept.にははっきり書かれていないが、軍管区が調達に責任を持つ物資と、予備軍司令部がまとめて調達する物資が伝統的に決まっているのであろう。後者に弾薬が含まれることは、この区分が旧ドイツ帝国(プロイセン)とラントの、時として微妙な関係に発することを示唆する。

  • 車両と車両部品

 各軍管区には最大9つ、最低4つの後方車両廠(HKP)があって、車両の検収・修理・部隊への補充をつかさどっていた。部品とタイヤについては各HKPの下に専門の検収部門があった。

 陸軍倉庫は検収場所でもあるので、工場から出てきた車両は最寄りの陸軍倉庫に送られた。例えばフォルクスワーゲンの国営工場はヴォルフスブルク(現在のフォルクスワーゲン社発祥の地であり、本社所在地)にあり、最寄りの陸軍倉庫はカッセルだった。ブルムベアの生産はシュコダ、ニーベルンゲンヴェルケ、ザウラーなど数か所の工場で少しずつ行われ、ザウラー社の生産分は最寄りのウィーン陸軍倉庫に納品された。

  • 衛生材料

 ベルリンのHauptsanitaetsparkと、軍管区のWehrkreissanitaetsparkが並列しており、前者はサンプル品供給や特定重要薬品の供給などで後者を支援する関係にあった。ただし前者は予備軍司令官直属であり、旧日本軍風に言えば、前者が後者を区処する関係にあったと思われる。

  • 獣医・厩舎用品

 衛生材料と同様、Heereshauptveterinaerparkと各軍管区にひとつのHeimatveterinaerparkが並立していた。装蹄工具などは民間から買うが、窓口はこれらの機関だった。

  • 軍馬

 Heimatremonteaemter(陸軍新馬局)が若い馬を買い、軍用に適するまで育てた。本国の部隊や乗馬学校にはここから直接送られるが、野戦部隊に送られる馬はいったんHeimatpferdepark(後方軍馬廠)にプールされた。HeimatveterinaerparkやHeimatpferdeparkは軍管区の数字をアラビア数字につけて、たとえば第XXI軍管区ならHeimatpferdepark 21などと呼ばれた。なお武装親衛隊のためには、Heimatpferdepark der Waffen-SSがニーダーザクセン州のブラウンシュヴァイクにあった。

  • その他の材料

 工兵資材、要塞工兵資材、鉄道工兵資材、ガス防護装備についてはそれぞれ専門の集積所があった。

衣料と個人装備(国内)

 管理面においては、予備軍司令部指揮下の国防軍衣料装備調達局(Wehrmachtbeschaffungsamt Bekleidung und Ausruestung)が軍管区司令部E部門を区処した。物流面では、HBA(Heeresbekleidungsaemter、陸軍調達倉庫)が各軍管区にひとつまたは複数置かれ、衣料・装備の材料調達と製造・検収・修繕が行われた。

食料と飼料(国内)

 中央での食料・飼料補給を取り扱う機関は給糧調達倉庫群(Amtgruppe Verpflegung and Beschaffung)であり、軍管区司令部C部門を区処した。

 平時に各軍管区で食料の受け入れ・送り出しを行う最高次の組織は陸軍糧食中央倉庫(Heeresverpflegungshauptaemter、HVHA)である。これらは平時には民間業者からの買い入れに頼り、生産者からの直接買い付けをする機能を持たない。

 戦時にはHVHAとは別に(二枚看板で実質的に同じ組織の機能拡張版、という可能性もある。その場合も倉庫能力を拡張する必要がある)、買い付け機能を持つ糧食補充倉庫(Ersatzverpflegungsmagazin、EVM)が設置された。EVMが直接戦地・本国の部隊に食料を送ることもあり、HVHAを通じた平時のシステムが使われることもあった。それぞれのEVMやHVHAは所在地の名前を取って、Ersatzverpflegungsmagazin Wien などと呼ばれた。

 HVHAと各部隊のあいだには、野戦部隊に対してHeeresverpflegungsaemter(HVA)、おそらく地域の予備軍部隊に対するものとしてHeeresstandortverwaltung Verpflegungsabteilungenがあった。

燃料(国内)

 U.S. War Dept.は燃料補給についてはおぼろげな記述しかしていない。ゲーリングの経済省が燃料輸入や精製業者のコントロールを取り仕切っており、国策企業WIFo(Wirtschaftliche Forschungsgesellschaft)が補給ラインの最上位にいた。そうしたレベルの補給ラインは三軍すべてに対応した。

 他の資料によると、WIFOはもともとI.G.ファルベンが設立に関与したが、増資によってほぼ国営企業となった。その所有する原油と人造石油のタンクのうち、Grossraumtanklagerと呼ばれるものはまだ三軍のどれにも紐づけられていない原油、Heerestanklager、Marinelager、Lufttanklager(Luftwaffentanklagerとも)には出荷命令に基づいて三軍に振り分けられた分が収められた。ここが燃料補給の起点といえる。Lufttanklagerはのち空軍に移管されたが、Heerestanklagerについてははっきりしない。

軍集団・軍レベルの集積所

 ほとんどの物資は軍レベルの集積所が本国から物資を受け取った。例外的に車両については軍集団レベルで集積所が存在した。これについては戦車修理組織全般についての説明と合わせ、別項を参照されたい。

初期支給分と弾薬補給単位

 旧日本陸軍には「会戦分」という弾薬補給量の概念があった。3~4ヶ月の作戦に要する量であり、武器ごとに決まっていた。Wikipediaの記述は大東亜戦争研究室の記述とそっくり同じだが、大東亜戦争研究室では小銃弾300発、山砲(師団砲兵)で2000発となっている。

 ドイツ軍にもこれに似たMunitionsausstattungという概念がある。ただ小銃弾で87発、105ミリ榴弾砲で125発と、会戦分よりかなり少ない。そこでMunitionsausstattungは「弾薬補給単位」と訳しておくことにする。同じMG34/42でも、軽機関銃で2977発、重機関銃は5525発、砲兵や対戦車砲兵が自衛用に持つ軽機関銃は1185発などと役柄ごとに異なっていた。

 Gerhard Donatという人は若い歩兵士官だったが負傷し、参謀教育を受け直して大戦末期にOKH補給総監部(戦前で言うと補給課、あるいは6課)につとめた人である。この人に「Beispiele für den Munitionsverbrauch der deutschen Wehrmacht im zweiten Weltkrieg」という雑誌記事があり、そこで話のついでにMunitionsausstattungとは何かが解説されている(出回っているPDFの2ページ目右下、もとの雑誌では76頁)。

 そこで書いてあることをさらに縮めると「部隊が移動するさい、自分のリソース(行李、段列を含む)で持ち運べる弾薬量」である。重機関銃中隊には余分の弾薬運搬能力があるから、軽機関銃より補給単位が大きいのだし、その相当部分は馬車やトラックにあるから、戦闘に入った重機関銃がすぐ近くに持っている量はそれより少ないわけである。

 戦車や自走砲が車内に持つ弾薬定数はKampfsatzとよく表現されている。KampfsatzはAusstattungの同義語として使われている場合と、文字通りの携行弾数を指す場合があるようである。上記のように軽機関銃の弾薬3000発と言えば弾薬箱12箱分であり、もちろん相当数を行李に残しておかねばならない。

 個人が持つ小銃弾や、砲兵連隊が持つ榴弾のことを初期支給分と呼ぶことにする。U.S.War Dept.によると、師団は初期支給分と段列・行李の持つ分を合わせて2単位、軍司令部にさらに1単位を持つのが原則だった。

輸送

輸送に関わる組織

 1937年に戦時輸送体制が計画されたときは、運輸大臣(Reichsverkehrsminister)と戦争大臣(Reichskriegsminister)は戦時に編成されるべき管理組織にそれぞれ代表を送れることになっていた。この当時、陸軍と海軍の総司令官(Oberbefehlshaber)はブロンベルク大将、空軍のそれはゲーリング航空大臣だった。しかしブロンベルクが1938年に失脚し、戦争大臣の権限をOKW幕僚総監(カイテル、敗戦直前にはヨードル)が引き継ぎ、レーダーとブラウヒッチュが総司令官に就任すると、運輸大臣は従来より軍の圧力を受けるようになり、1939年8月30日にゲーリングと関係閣僚が作る国防会議審議会(Ministerrat der Reichsverteidigungs)が閣議決定に準ずる法的効力を振るえるようになったときも、この審議会に運輸省の代表は送れなかった。(Kreidler[2001]、pp.23-24)

 1934年にはドイツ国有鉄道の鉄道員に線路防衛のための訓練を行う教育機関が設立された。1937年には、国防軍が特に重要な、ライン川にかかる鉄橋の警備責任を負うことになった。また戦時動員のさい、16000人規模の鉄道建設部隊が創設され、うち約5700人をドイツ国有鉄道のスタッフから出して、残りを徴兵で埋めることが定められた。(Kreidler[2001]、p.28)

 第一次大戦後のドイツは鉄道輸送能力の過剰に苦しみ、4カ年計画の進行でようやく輸送需要が高まってきた1937年以降も、機関車などへの投資には慎重にならざるを得なかった。

 OKHに直属して、輸送総監(Chef des Transportwesens)が置かれ、補給・部隊輸送などあらゆる種類の軍用輸送のため、鉄道と内国水運を統括した。U.S.War Dept.はOKW直属とするが、ドイツ国立公文書館の解説ではOKH直属となっている。この混乱には理由があって、Axis History Forumの過去記事によれば、同じ人物(ゲーリケ歩兵大将)にChef des Transportwesens der WehrmachtというOKWでの併任辞令を出したというのが真相である。鉄道輸送には三軍がお世話になり、言い分も持っているのだから、むしろこれは当然だろう。

 地域司令部としてTransport Kommandantur(TK)がハンブルク、シュテッチンなど主要都市に置かれた。後方だけでなく、ドイツ占領下のフランスや、ミンスク、キエフなど占領下の大都市にもTKは置かれている。1943年には63ヶ所のTKが置かれていた。(Kreidler[2001]、p.328)。

交通管理局(WVD、HVD、HBD、RVD、GVD、EBD、FBD/Fekdo)

 軍交通管理局(Wehrmachtverkehrdirektion、WVD)は、ベルギー・フランス戦の直前に創設された一種の司令部で、軍の作戦地域で列車の運行をコントロールする組織である。フランス降伏後しばらくは、ブリュッセルとパリにWVDがあった。1942年6月、これらは上級交通管理局(Hauptverkehrdirektion)と改称された。WVDの長はKommandeurだが、HVDはPräsidentで、ふたつのHVDの長はどちらもドイツ国有鉄道の民間人だった。このようにWVDは軍政地域に限って置かれるもののようで、1943年にWVDが置かれていたのはItalien(ボローニャ)とSüdost(ベルグラード)だけだった。

 ソビエト侵攻に先立ち、各軍集団にひとつずつ野戦鉄道管理局(Feldeisenbahndirektion、FBD)が割り当てられた。Kleiderはこの組織が鉄道に関わる工事を行うため、約1万人の人手を持っていたことを強調している(Kreidler[2001]、p.120)。ただし、鉄道工兵連隊や鉄道工兵大隊の記録をひとつずつ調べると、この管理局に属していたとはっきり分かる部隊はない。ハルダー参謀総長の戦時日誌に、この目的のためにふたつの鉄道工兵連隊が新設されたと書いてあることをKreidlerは引用しているのだが、ソビエト侵攻時には各軍集団がひとつの鉄道工兵連隊、ほとんどの軍がひとつの鉄道工兵大隊を指揮下に置いていたようで、各FBDがもうひとつずつ鉄道工兵連隊を持っていた、とは考えにくい。これらの部隊を(軍集団司令部の黙認のもとに)区処していたと考えるのが自然に思われる。

 ドイツ軍の戦線が東進すると、後背地域にはHBDが設置され、管轄地域をFBDと分担した(Vecamerによる説明)。なおHBDの長はやはりPräsidentだったが、軍人(少将ないし大佐)のこともあった。FBD 1はバルカン方面に転用されWVD Südostに改編されたが、3つが東部戦線で新設され、1942年春以降は野戦鉄道司令部(Feldeisenbahnkommando、FeKdo?)と改称された。1943年には次の地域で活動していた。

  • FeKdo? 2 スモレンスク
  • FeKdo? 3 ハリコフ
  • FeKdo? 4 プスコフ(ドイツ語表記でプレスカウ、エストニア国境に近いロシアの町)
  • FeKdo? 5 クラスノダール

 1942年12月以降、HBDはリガ・ミンスク・キエフ・ドニエプロペトロフスク・ロストフに置かれたRVD(Reichsverkehrsdirektion)と、それを統括するワルシャワのGVD Ost(Generalverkehrsdirektion Ost)に改組された。軍集団に付属する色彩が強かったHBDが現状に合わなかったのだろうか。

 Freese[2003;p.46]によると、RVDは「青い」鉄道員、すなわちライヒスバーンの組織であるのに対し、FeKdo?は「グレーの」野戦鉄道員の組織だと形容されている。

 フランスとベルギーでは、HVDの下位管理組織として、EBD(Eisenbahndirektion)が10ヶ所に作られた。

 ドイツ本土には、31ヶ所のReichsbahndirektionがあった。 

鉄道工兵

 1939年8月の戦時動員と同時に、輸送総監の下に鉄道部隊総監(Befehlshaber der Eisenbahneinheiten、略称Bedeis、1940年3月以降はBefehlshaber der Eisenbahntruppenと改称、さらに1944年以降はGeneral der Eisenbahntruppenとも)が置かれた。

 軍司令部にKodeis(Kommandeur der Eisenbahntruppen)、一部の軍集団司令部にGruKodeis?が置かれ、その戦域の鉄道工兵部隊を統括したが、鉄道部隊総監は鉄道部隊(おそらく鉄道工兵部隊と同義)の教育に責任を持つと共に、これらの部隊を区処した。

輸送士官と全権輸送士官(BvTO)

 輸送士官(Transportoffizier)は1920年代から1930年代にかけて、あいまいな名称として盛んに使われた。じつはTransport Kommandantur(TK)もある時期まではTransportoffizierだった。いっぽう、ライヒスヴェーアの師団司令部(管轄地域の広さから言えば超師団級である)にもTransportoffizierがいて、これがBvTOの先祖に当たる。

 軍集団と交通管理局のあいだを調整するために、全権輸送士官(Bevollmächtigte Transportoffiziere、BvTO)が置かれた。(Kreidler[2001]、p.131)。

鉄道輸送の概略

 この件に関するU.S.War Dept.の記述は短すぎて分かりにくいのだが、たぶんこうだろう、というところを説明する。

 特定の軍向けの貨物が列車1編成分以上あるときは、その機関の最寄り駅から列車が出た。列車を組むほどの量がない場合、その目的地向けの集荷駅(Sammelbahnhoefe)に向けて荷を送った。イメージとしては、例えばハンブルクのEVMが第100軍に食糧を供給する責任を負っているとき、第100軍向けの半端な補給物資をハンブルク駅に送って便乗する、といったものと思われる。

 それとは別に、仕分駅(Weiterleitungstation)という概念があった。これは中央郵便局のようなもので、あらゆる宛先への荷物をいったん受け取り、量がまとまるごとに目的地か集荷駅に送っていたのであろう。

 受け取る側は典型的には軍司令部の物資集積所(Armee Parke und lager、おそらくFreese[2003:p.17]のいうV.St.P.=Versorgungsstützpunktと同じもの)だが、鉄道駅でそれに最も近いものを軍最寄駅(Kopfbahnhoefe)といった。西部戦線では戦線から10ないし50マイル、東部戦線では90ないし120マイルのところに軍最寄駅は設定された。

 鉄道がもっと前線近くまで延びているときは、軍団最寄駅や師団最寄駅とその近くの集積所が設定されて、物流を助けた。

機関車保有数の推移

各年末にReichsbahnが保有していた機関車保有数を次に掲げる(Kleidler[2001;p.337])。Reichsbahnが管理しているのは、簡単に言うと東部戦線とポーランド総督領を除いた残り全部である。

193923826
194026481
194127859
194230035
194333982
194437810

 1941年には占領地域が急拡大しただけでなく、寒冷地対策を取った機関車が20%しかなかったこと、整備が追いつかず稼働率が低下したことなどによって、機関車不足が生じた(Kleidler[2001]、p.135)。1941年中の生産はあまり大きなものではなく、1942年になってようやく増産の成果が現れてきたことがわかる。

 同書p.340には月次営業貨車延数(wagenstellung)の推移がある。どうもドイツ独特の概念らしい。おそらく列車に編成されて走った貨車数を積算したものだと思うが、正確なところをご存知の方はご教示いただきたい。1938年の年間平均は3.8(単位:100万)であった。1941年10月には4.22であったものが、11月には3.84と急落し、1942年2月の2.66まで一本調子に下がって、それから回復に向かった。その後1944年11月まで3.0を切ることはなかったのだから、この時期の落ち込みは際立っていると言っていいだろう。

1942年夏期攻勢時の第6軍補給線と鉄道工兵の活動

 別項にまとめた。

占領下ポーランドの鉄道組織

 別項にまとめた。

その他のメモ

 項目を立てるほどの量がない事実について、ここにまとめる。

ドイツの予備役と後備役(大戦前)

  • Reserve I 35才以下で兵役を済ませた者。
  • Reserve II 35才以下で年単位の兵役は受けていないが短期訓練を受け続けている者。
  • Ersatzreserve I 35才以下で未招集の者。
  • Ersatzreserve II 35才以下で身体上の問題などで任務に就けないか、限定的な任務にしか就けない者。
  • Landwehr I 35-45才で兵役を済ませた者。
  • Landwehr II 35-45才で兵役に行ったことがない者。
  • Landsturm I 45-55才で兵役を済ませた者。
  • Landsturm II 45-55才で兵役に行ったことがない者。

 ただし各期間は、上限の誕生日を迎えた次に来る3月31日までである。例えば兵役に行ったことがない男性は、45才の誕生日にはLandwehr IIで、最初に迎える4月1日からLandsturm IIになる。

  • (出所)U.S.War Dept. pp.55-56

ドイツ軍の軍用馬事情:概観

 この項は、以下の書籍からいくつかの基本的な数字を取り上げたものである。その典拠は多くの場合、著名な研究者の論文または書籍であり、もとの数字がどう算出されたかたどることができない。また、マイソフの判断で本文の数字を概数に直して記述を短くしている場合がある。

R.L.DiNardo [1991]'Mechanized Juggernaut or Military Anachronism?: 
Horses and the German Army of World War II',Greenwood (New York),
ISBN 0313278105

 第二次大戦直前、ドイツ軍の軍馬動員能力は約400,000頭であった。1940年5月までに、ポーランドからの100,000頭を含む148,000頭が占領地から徴発され、また計画的に生産されてきた。ベネルクス・フランス戦で90,000頭あまりの死傷病馬が出たが、のちに回復が見込まれる病馬も含んだ数字であり、これらの地域から1940年8月までに34,000頭が新たに徴発されてドイツ本土に送られた(同書pp.17,27,30)。また、ポーランドの農家から馬車15,000台が徴発され、バルバロッサ作戦に参加する歩兵師団に配属された(p.38)。

 バルバロッサ作戦に動員された軍馬の推計値は600,000頭から750,000頭までばらつきがある(p.40)。

 飼料は草の豊かな地域で、進撃が急でない時期には青草や干草を当てにできたが、当てにできない時期や地域もあった。替え馬は不足しただけでなく、鉄道輸送のキャパシティを大きく食うため、本国から徒歩で連れてくるしかなかった。現地調達の駄馬は小型で、重砲の牽引には使えなかった。10月以降、悪天候下での重労働で病馬となる例が急増した。重砲の牽引に適する大型の馬は特にロシアの寒さに弱かった(pp.43,44,46-48)。

1941年バルバロッサ作戦開始時から1942年3月20日までに、ソビエトのドイツ軍は任務に堪えない衰弱馬を含めて264,954頭を喪失した(p.50、原数字はOKW戦時日誌)。

1942年、ドイツは本国と占領地合わせて400,000頭の軍馬を新規に調達した(p.56)。

1942年7月28日現在、ドイツ第6軍は90,000頭の軍馬を持っていた。1942年11月23日に包囲の輪が閉じられたとき、軍馬は25,000頭に減っていた。降雪後は草を食べさせることができず、消耗した馬は順次後退させていたことが一因である。これ以後軍馬は順次食料となってゆき、1943年1月19日、パウルス司令官は「最後の馬を食べつくした」と報告した(pp.55-63)。

イタリア戦線では多くのロバとラバが使われた(p.75)。

1945年2月1日までに国防軍が動員した軍馬は、陸軍1,060,106頭、空軍37,072頭、海軍1,556頭、合計1,198,724頭だった(p.103)。

参照文献


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Last-modified: 2017-08-31 (木) 04:31:10 (1043d)