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欧州戦記資料

ドイツ軍装甲旅団列伝

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はじめに

 ドイツの装甲旅団は、極初期のものや、後に師団に格上げされた武装SSのエリート旅団を除くと、総じて間に合わせの存在だった。典型的には戦車と歩兵の組み合わせで、砲兵を持たない。そのことで何かを積極的に狙ったというより、エキスパートの戦闘工兵や通信部隊は足りないが新米歩兵と新米戦車兵なら都合がつくからとりあえず編成され、そのまま戦線に出てあっという間に全滅したというのがよくある運命である。また、師団の生き残りがもう一度師団を作るほどいなかったので旅団にした、という例も複数ある。

 装備だけ見ると必ずしも末期最貧とは言えないのだが、ボロボロになった師団が奮闘する姿を中高年サラリーマンとすると、いきなり無理な商品を無理な価格で売るべく名刺だけ持たされて飛び込み営業に投入されて半年保たずに退社する新卒正社員と言った役どころである。

 Stoves[1986]は古典的な「ドイツ国防軍装甲部隊大全」である。これとLexikon der Wehrmachtを基礎として進めるが、参照文献リストはあっても個別の数字に典拠がないStovesの限界で、戦力については計画なのか配備数なのかいつの数字なのか等々、どこまで信じていいのかわからない部分もある。

第1~第6および第8装甲旅団

 極初期の戦車師団はその中に装甲旅団司令部を持っていて、2個装甲連隊がその下にあった。こうした陸のアルマダのような編制は放棄されたが、ポーランド戦開始前に作られた第1~第5装甲師団はそれぞれ第1、第2、第3、第5、第8装甲旅団を持っていたし、充足率はともかく、ふたつの装甲連隊をそれぞれ持っていた。

 第4装甲旅団はケンプ少将(当時)の名を取ってケンプ装甲師団とも呼称され、東プロイセンからポーランドに攻め込む国防軍と武装SSの戦車部隊を統括する司令部として働いた。戦後この編制は解かれ、司令部の人員は第10装甲師団の新編に使われた。

 第6装甲旅団はふたつの装甲連隊(第11と25)を持っていたが、ポーランド戦では第2軽機械化師団の戦術的指揮下で働いた。第2軽機械化師団は固有の戦車戦力としては1個大隊しか持っていなかった。ポーランド戦が終わると、第11装甲連隊は第1軽機械化師団といっしょに第6装甲師団となり、第25装甲連隊は第2軽機械化師団とともに第7装甲師団となった。

第10装甲旅団と特別編成装甲旅団

 第8戦車師団の第10装甲連隊はバルバロッサ作戦開始以来、北部軍集団で戦い続けたが、装備車両の多くが38(t)戦車であった。1942年夏に休養再編を受けた際、III号戦車とIV号戦車で装備を置き換えるべきところ、1個大隊分しか工面がつかなかった。そこで国防軍は、次のようにした。

 第10装甲連隊の第I大隊だけを師団に残す。

 第II大隊は、南方軍集団で攻勢の主役となる第16装甲師団に属する第2装甲連隊に移し、その第III大隊とする。じつは番号の若い第2装甲連隊はフランス戦当時にI号・II号戦車の構成比率が高く、バルバロッサ作戦開始時に6個中隊しか戦車がいなかった。つまり第III大隊が欠けた状態だったのである。伝統ある第2装甲連隊に移った兵員たちはスターリングラードへ行き、非常に幸運な者だけが1955年にドイツへ帰ってきた。

 第III大隊は軍直轄の第302無線誘導戦車大隊に改編する。

 そして第10装甲連隊本部はOKH予備とする。この司令部部隊はフランスに移されていたが、1943年6月に第10装甲旅団・特別編成装甲旅団というふたつの司令部部隊に分かれ、東部戦線に送られた。前者はクルスク南側の南方軍集団でパンターD装備の第51・第52戦車大隊を統括し、後者はクルスク北側の中央軍集団、第9軍のもとで第505独立重戦車大隊、第216戦車大隊などを指揮した。クルスク戦後はふたたび合流し、フランスのランス(Reims、シャンパーニュ地方)に移って訓練部隊を統括した。

 なお第216戦車大隊と言うとブルムペアの第216突撃戦車中隊を思い浮かべるが、もちろんこの部隊にはアリバイがある。番号の似た戦車大隊の装備から見て、おそらく(戦車兵総監管理下の)突撃砲か捕獲戦車部隊で、短命なものがあったのだろう。なにか勘違いをしていたようである。第216戦車大隊はブルムベアを装備し、創設後間もなく第216突撃榴弾砲大隊(Sturm-Haubitzen-Abteilung)と改名された。

第18装甲旅団

 第18装甲師団は1940年10月、つまりドイツがイギリス上陸を諦めた時点で編成された。そしてその戦車戦力は誰あろう、潜水戦車を装備する4つの独立大隊だったのである。この4つの大隊を、国防軍は当初第18装甲連隊、第28装甲連隊のふたつに分けた。そして1935年に登場した装甲師団群のように、第18装甲旅団司令部をつくってふたつの連隊を統括させたのである。だから旅団固有の部隊は、司令部そのものと小さな通信隊だけだった。

 しかし独ソ戦を前に国防軍は思い直し、第28装甲連隊を廃止して、大隊の片方を第18装甲連隊に渡して3個大隊編成とし、もう1個は第3装甲師団に送った。要らなくなった第18装甲旅団は戦闘団を作るための司令部部隊として師団内にとどまった。Lexikon der Wehrmachtによると、形式的にはこの司令部部隊は1942年夏以降は中央軍集団直轄部隊となって年末までにオスロに送られ、第25装甲師団のもとで新編された(番号は若いが再編ではない)第9装甲連隊の司令部となった。

 第18装甲師団の戦車戦力はヴェリキエ・ルーキ、クルスクと休む間もなく連戦し、摩耗した師団全体が第18砲兵師団に改編された1943年9月末には事実上消滅していた。司令部スタッフの一部は第9装甲連隊創設のために後から加わった。ただしそれと入れ替わるように編成未完結の第25装甲師団は東部戦線の火消しに投入され、翌年の春までに摩耗してしまったのだから、うらやましがられるほどの運命好転とはいえないであろう。

第21装甲旅団

 第21装甲連隊は1940年10月に第20装甲師団の一部としてゼロから新編成された部隊である。中央軍集団に属し、「火星」作戦の撃退など1942/43年の多忙な冬を働き通した第21装甲連隊はすっかりすり減っていた。もはや戦車連隊レベルの再建は間に合わないと判断した国防軍は、1個大隊だけを長砲身IV号戦車45両で完全に再建し、連隊本部は独立司令部部隊として師団から切り離した。そしてツィタデル作戦では、独立戦車部隊群をまとめるために使ったのである。第505重戦車大隊の一部などが参加したとされるが、細部ははっきりしない。これを記録していたはずの第9軍司令部が1944年夏に何もかも捨てて逃走する羽目となり(当時の司令官も参謀長も生き延びているが書類綴までは無理であろう)、いちばんよく知っていそうなモーデル元帥が回想録を残さずに自殺してしまったので、第9軍関係の細かいところは不明な点が多い。

 第20装甲師団は東部戦線にとどまったが、第21装甲旅団は廃止され、人員はノルウェーに送られた。ノルウェーの防衛部隊でもあった第25装甲師団が東部戦線に送られたので、さらに練度の低い部隊や第25装甲師団の訓練部隊から戦車旅団"ノルウェー"が新編成され、その司令部に吸収されたのである。1944年夏以降、この部隊から第25装甲師団が再建されて結局また東部戦線に送られ、オーデル川まで戦いぬいている。

第100装甲旅団と西方軍戦車集団

 第100戦車旅団はフランスのいろもの捕獲戦車部隊を統括する、一部マニアにはおなじみの部隊であった。ただこの部隊について説明するには、その上位司令部である西方軍についても一定の記述をした方が良いと思うので、あわせて述べる。

 1940年10月まで、フランスにいるドイツ軍はフランスに攻め込んだ時の基本的な編成を残していた。A軍集団とB軍集団がフランスに攻め込み、マジノ線正面とその南方はC軍集団が抑えていたのだが、そのあともイギリスとスペインをちらちら横目で見ながら、結局何もしなかったのである。

 1940年10月、D軍集団司令部がパリ近郊に置かれる。初代司令官は1940年7月の大量昇進で元帥になったウィッツレーベン将軍。この人物は第一次大戦が終わった時には大尉で、歩兵師団の作戦主任参謀(Ia)をしていた。陸軍大学校卒業者が最初につく典型的な職は歩兵師団の補給主任参謀(Ib)だから、これが初任だとするとよほど優秀と見られていたのだろう。

 その後も順調に出世し1934年には少将として第3歩兵師団長兼第III軍管区司令官だった。つまりベルリンの陸軍を統括する責任者である。ところがLexikon der Wehrmachtは、ウィッツレーベンが1934年6月30日のNSDAPによる大粛清事件で、陸軍のシュトラッサー大将(元首相)とブレドー少将(シュトラッサー政権の国防大臣代理)が謀殺される間、何もしなかったことを指摘している。少将だったウィッツレーベンは、1936年には大将になっていた。フランス戦でもC軍集団の第1軍を指揮し、動かなかった。そのくせ1938年のヒトラー逮捕計画には参画しており、そのまま1944年のヒトラー暗殺計画にも連座して処刑された。

 1941年のバルバロッサ作戦開始前にD軍集団のもとで第15軍が創設され、スペイン国境に近いボルドー地方に第1軍、カレー・ダンケルクなどベルギーに一番近い部分を第15軍、その中間を第7軍と言う配置が完成した。

 1942年5月以降、第LXXXIII軍団司令部がD軍集団に直属し、ブルターニュ地方など内陸部にいるドイツ軍部隊を統括した。この司令部は指揮官の名を取ってフェルバー集団(Armeegruppe Felber)という二枚看板を持ち、その名前でニース周辺のフランス領に駐留するイタリア第4軍への指揮権を持つこととなった。1943年8月以降、(カサブランカのフランス軍が連合軍に抵抗しなかったことなどを理由に)ドイツ軍がヴィシー・フランスへの部隊進駐に踏み切ると、この司令部は第19軍司令部に格上げされた。

 さて、西方軍(OB West)とは何であろうか。1941年4月以降、D軍集団に与えられた二枚看板に過ぎない。後になってB軍集団やG軍集団ができたが、形式としてはD軍集団がカイテルに次ぐ最先任元帥のルントシュテットを擁し、B軍集団やG軍集団への指揮権を認められていたということなのである。ただし1944年9月以降、D軍集団司令部と言う呼称のほうが廃止され、西方軍が担当するパリ周辺も失われたので、他の軍集団への指揮権だけが結果的に残ってしまった。

 余談だが、コルティッツ歩兵大将は「パリ市防衛司令官」であったとされているが、その直前まで西方軍司令部付という身分だった。つまりコルティッツはB軍集団ではなくD軍集団に直属し、パリで逃げ遅れた集成部隊の指揮を取っていたということなのである。

追記 コルティッツの指揮下にあった部隊の規模などははっきりしないが、Militarverwaltungs- Bezirk Groß-Parisとしてコルティッツの前任者だったHans von Boineburg-Lengsfeld中将は、第325保安師団長を兼任していた。大将になったコルティッツは師団長は兼ねなかったであろうが、この師団はその後の消息不明なまま1945年1月に解散手続きが取られているので、少なくともこの師団は指揮下にいたに違いない。4個保安連隊を持ち、砲兵・工兵などは持っていなかったと思われる。

 では第100装甲旅団の解説に入ろう。第100装甲旅団は1941年3月、第15軍の発足と同時に創設され、西方軍直轄だった。第201・第202装甲連隊を擁し、フランス防衛と要員訓練を兼ねた部隊だった。第23装甲師団創設時には、第201装甲連隊が装備をドイツ製戦車に入れ替えてその主力となった。また第202装甲連隊は第26装甲師団に2個大隊を渡し、残りは第202装甲大隊となってクロアチアで治安任務に就いた。第101装甲旅団(初代)も同様の部隊として作られ、のちにこの旅団に編合された。残余は1943年初頭以降、西方軍戦車監直属旅団(die Brigade in General der Panzertruppen beim Oberbefehlshaber West)という長い名称に変わったとLexikon der Wehrmachtにある。

 ではその西方軍戦車監とは誰であるのか。ガイル=フォン=シュベッペンブルク(Leo Geyr von Schweppenburg)戦車兵大将だと言ったら、ああそういうことかとお分かりいただける方もいるだろう。

 ガイル大将は1941年にはグデーリアン戦車集団の軍団長として戦っていた。後にロンメルと対立した時、グデーリアンの考えを信奉していたのはこの経緯がある。健康上の問題があったものか、1942年から総統予備(つまり無役)の期間が長くなり、1943年4月からは西方軍で勤務するようになった。そして1943年8月からは第LVIII予備装甲軍団長を兼任するようになった。つまりフランスで戦車部隊を練成する組織が旅団から軍団へ規模を拡大し、旧来の部隊は吸収されて、ガイル大将がその責任者とルントシュテットの戦車関係顧問を兼ねるようになったのである。この軍団がさらに拡大され、予備でもなくなって、ノルマンディー上陸直後に戦車戦の主体だった西方軍戦車集団の母体となるのである。

 こうした構造がすっかり出来上がっていたところへ、後からロンメルのB軍集団司令部ができて主導権争いを始めた、というのが1944年の状況であった。1943年7月にロンメルがB軍集団司令官になった時は、北イタリアを担当する計画だった。ところがアフリカ時代からロンメルに対して我慢に我慢を重ねていたケッセルリンクとの関係がやはり良くないので、1943年11月になってB軍集団司令部を海峡防備担当とすることが決まったというグダグダした経緯があったのである。

第101装甲旅団(初代)

 第101装甲旅団(初代)は3ヶ月しか存在しなかった。1941年6月、第100装甲旅団に3か月遅れて創設されたが、第23装甲師団を創設するために司令部の人員が使われ、9月には廃止された。バルバロッサ作戦開始時の態勢は、第1~第20装甲師団が総動員であった。これでもフランス戦当時より倍増しているのだがそれでも足らず、第21装甲師団はアフリカで昇格した師団の番号に使われていたから、1941年秋に急きょ第22、 第23装甲師団が編成されることになったのである。

 旅団の主力は第203装甲連隊と第204装甲連隊であった。第204装甲連隊は旅団廃止と同時に、第22装甲師団に配属された。第203装甲連隊はしばらく第100装甲旅団にいたが、独立部隊として北方軍集団に送られた。

 同じ枝から生まれたふたつの木の実だと言うのに、その後の運命は対照的だった。第22装甲師団は翌春にクリミア攻略に加わったが、短期間のうちに大損害を出し、フランスからやって来てあっという間に溶けてなくなったので「オーデコロン師団」と陰口をたたかれ、この蔑称を禁ずる命令が出された。スターリングラード包囲網の内側ではなく、外側のドン軍集団にいたのは幸運と言うべきだが、翌春までに壊滅的な損害をこうむって解隊され、残余は第23装甲師団に加わった。

 独立部隊となった第203装甲連隊を、1943年初頭に思わぬ運命が待っていた。グロスドイッチュラント師団が装甲擲弾兵師団に昇格するにあたり、戦車部隊を拡張する必要があったのである。連隊の半分はグロスドイッチュラント装甲連隊に加わり、残り半分は再建途上の第1装甲師団に送られて、オリーブと陽光のバルカン方面に駐留した。

 だが、最終回で別れた悪玉トリオがすぐ先の道で行き合うように、3つの師団は1944年になるとすべてウクライナで戦うことになったのである。

 ドイツは敗れても彼らは敗れなかったことを付記しておく。これだけ東部戦線にどっぷりつかった部隊でありながら、3つの師団すべてがあらゆる困難に打ち勝ち、最終的にはアメリカ軍かイギリス軍に降伏することができたのである。

第101装甲旅団(2代目)

 第101装甲旅団(2代目)は1944年6月21日に編成された。中央軍集団から損耗した第18装甲擲弾兵師団が間もなく後退して来るはずで、再編のための基幹部隊となるべく、補充人員がこの旅団に集められていた。1個装甲大隊と1個装甲擲弾兵大隊が属していたが、もともとこんな単位で戦う予定はなかったのだから、戦闘での効率を云々すること自体意味がない。

 ところが旅団編成の翌日に始まったソビエト軍の夏季大攻勢「バグラチオン作戦」がすべてを引っくり返した。第18装甲擲弾兵師団は6月28日に全滅と判定された。すべての局面に火がついた。包囲の外側にいて原隊に戻れなくなった(と思われる)第36装甲擲弾兵師団の一部も第101装甲旅団に加わった。そして集成部隊のまま、第101装甲旅団はリトアニアへ送られた。北部軍集団はまだ包囲を逃れる見込みがあった。

 8月。9月。旅団は転戦を繰り返し、ラトビアのリガ周辺まで押されてきた。だが、まだ包囲されてはいない。10月。東プロイセンに入り、第5装甲師団と肩を並べて戦った。現在はロシアの飛び地となっているティルジット(現ソヴィェツク)近くまで来たところで後退命令が出た。第21装甲旅団の項で言及した第20装甲師団がやはり満身創痍で後退してきて、旅団はこれに兵員を提供して消滅した。

 なお、もともと合流するはずだった第18装甲擲弾兵師団は、第103装甲旅団などをもとに再建されたが、それについては別に述べる。

第102装甲旅団

 初めに日本の話をしよう。1940年以降、日本の道府県はそれぞれ連隊区と呼ばれる徴兵単位と一致することになった。これが最大で5つ集まって(この名前になるのは連隊区改正より少し後だが)師管区と呼ばれた。例えば京都師管区は京都・滋賀・福井・三重から成り、もともとあった第16師団が出征した後第53師団が編成されたがこれも南方へ出動し、そのあとには留守第53師団が置かれた。この留守第53師団の仕事は基本的に招集兵の基礎教育であるが、武装した男たちを(最低限の士官・下士官で)まとめているので、変事があれば治安出動することも考えられた。となると、それらをまとめる戦闘序列を決めておかないと大規模な作戦はできない。

 いよいよ切羽詰まってきた1945年、各地の留守師団やそれに相当する部署は「師管区司令部」に改編され、戦闘部隊として参謀長を置き、それぞれ方面軍司令部によって一般の陸軍部隊と統一指揮するようになった。訓練が主、治安出動が従であったものを入れ替えたと思えばよい。実際、師管区司令部の兵事部が招集業務を続けていた。戦闘部隊だから移動もする。瀬戸内海方面は比較的安全だからか、姫路師管区司令部は松代大本営を防衛するために長野県に移り、姫路師管区で大戦末期に召集されると、いきなり国鉄で長野に出頭させられた。

 このように陸軍が切羽詰まって来ると、訓練部隊に万一の防衛任務も副次的に負わせ、そのために戦闘部隊としての名前と配属関係を持たせるようになる。ドイツもそうだった。

 第102装甲旅団の母体となったのは、第233装甲師団(第233自動車化師団、第233予備装甲師団などと呼ばれた時期もある)だった。ベルリン周辺の第III軍管区で装甲部隊の諸兵科を訓練する部隊をすべて束ねたものである。必要とされる兵科の訓練部隊はみんなあるわけだから、一覧表にずらりと並ぶ訓練大隊を見るとまるで装甲師団として前線に飛び出して行けるように錯覚するが、実態は新兵の訓練部隊である。機材も士官・下士官も、第一線師団をひとつ作るにはとても足りない。

 1942年5月に創設されたときは本国にあったが、1943年8月に第233予備装甲師団はデンマークに移り、防衛任務も負わされた。

 第102装甲旅団は、この予備師団と周辺の訓練部隊から機材と人員をかき集めて、1944年6月末に急きょ編成された。バクラチオン作戦によって東部戦線にできた巨大な間隙をなんとしても埋めねばならなかった。予備師団を解体しても、第一線部隊としては旅団しかできなかったわけである。パンター戦車40両を持つ1個装甲大隊、装甲兵員輸送車に乗った1個装甲擲弾兵大隊と装甲工兵中隊から成っていた。IV号駆逐戦車を持つ戦車駆逐中隊は約束されていたが間に合わなかった。いくらも慣熟の時間はなく、8月に投入された地点はソビエトとポーランドの国境、ブーク川とヴィスラ川の合流地点ナレフだった。9月までかかって、渡河して来るソビエト軍の橋頭保を封鎖したものの、消耗しつくした旅団は西へ後退した。東プロイセンの南端に近いムワバ(Mlawa)で第25装甲師団による反撃の側面防御を引き受け、10月半ばには一転して鉄道輸送され、東プロイセン中部のゴウタプ(Goldap)とオレツコ(Oletzko)の中間で反撃する第561国民擲弾兵師団を支援した。その後も東プロイセンとメーメル地域(現リトアニア)を転戦した後、同地で第7装甲師団と第20装甲師団に吸収されて消滅した。

第103装甲旅団

 第103装甲旅団の母体となったのは、第25装甲師団である。まずこの師団の話から始めよう。

 1941年6月にバルバロッサ作戦が始まったとき、ドイツ国防軍の装甲師団は第20までだった。間もなく8月に、アフリカの第5軽機械化師団が第21装甲師団に昇格した。ソビエトが早晩崩壊しないことがはっきりした1941年秋、フランスで捕獲戦車を使って慣熟訓練にいそしんでいた部隊群を使って第22・第23装甲師団の編成が下令された。冬に入ったころ、休養再編中の第1騎兵師団に戦車連隊が与えられ、第24装甲師団となった。

 そして1942年初頭、第25装甲師団がノルウェーで編成された。1942年にも装甲師団のあいだで部隊再建の程度に開きが出始めていたが、1943年初頭になると充足率の低い装甲師団がはっきり表れていた。端的に言えば、ツィタデル作戦に参加した師団は状態のよい師団で、南方でくすぶっていた装甲師団群は戦車の配属数も少ないし、旧式戦車も多かった。第25装甲師団の戦車戦力はいつまでたっても充実しなかった。

 そのクルスク戦が戦果なく終わり、反撃の炎が東部戦線に広がると、第25装甲師団は脆弱な戦車戦力のまま東部戦線に送りこまれ、キエフ近辺のファストフに始まり、コルスン=チェルカッシィ方面で包囲と解囲のドラマが交錯していた1944年初頭にはニコポリを防衛していた。春になると、包囲を免れたとはいえ摩耗した第25装甲師団は休養再編するしかなくなった。第21装甲旅団の項で述べたように、ノルウェーには戦車旅団"ノルウェー"が作られていたし、第102装甲旅団の母体となった訓練部隊の束である第233装甲師団が再びデンマークに編成されていた。これらが再編のための人員を提供した。

 ところがフランスで第25装甲師団を再建するのと並行して、生き残りの兵員と補充人員両方の一部を割いて、第103装甲旅団を編成することになった。1944年7月のことである。1個装甲大隊(パンター40両)、1個戦車猟兵中隊(IV号駆逐戦車10両)、1個装甲擲弾兵大隊、1個自走重歩兵砲中隊、1個装甲工兵中隊という編成であった。

 窮迫する戦況の中で、しかし結局この旅団は軍予備として留め置かれ、いくらか側面防御を務めた他は、ほとんど戦闘に参加しなかった。おそらく損耗が激しい上に補充も進まず、頼りにならなかったのであろう。11月になると、第18装甲擲弾兵師団を再建するために兵員が使われ、残りは第5装甲師団の再建に使われて、事実上旅団は解散した。

 だが「最貧ではないが末期そのもの」の物語が、司令部だけになった第103装甲旅団を待っていた。国民突撃隊から第654重戦車駆逐大隊まで、ありとあらゆる部隊の生き残りを糾合した旅団戦闘団を集成して、1944年12月からマンハイム周辺の西部戦線でライン川防衛の一翼を担ったのである。

 翌年初頭、旅団はさらに第108装甲旅団の一部などを寄せ集めて再編した上、一転して東部戦線に送られた。シュタイナウ(現ポーランド領シチナバ)でオーデル川防衛に参加したのである。3月には北上し、ベルリン東へ向かった。そこで旅団はミュンヘベルク装甲師団という新しい名前をもらった。3月から4月にかけて師団の装備にはIV号戦車、パンター戦車、ティーガー戦車、IV号突撃砲、ヘッツァー駆逐戦車、88ミリ対戦車砲PAK43、赤外線装備つきパンター戦車と装甲兵員輸送車などが混在していた(同時に存在したとは限らない)。師団のほとんどはテンペルホフ飛行場周辺で壊滅し、一部は東プロイセンからシュレスヴィヒ=ホルシュタインに海路脱出していた第24装甲師団に編合されて最後の日々を過ごした。

第104装甲旅団

 1944年7月、1個装甲大隊(パンター36両)、1個装甲擲弾兵大隊、装甲工兵隊(3個中隊)をもって編成された。第233装甲師団や他の訓練部隊が人員器材を供給した。

 弾薬不足のためろくろく訓練もできないまま、8月には東プロイセンで実戦投入され、ポーランド=ソビエト国境でベーゼラーガーの第3騎兵旅団とともに戦い、ナレウ川を越えようとするソビエト軍と戦った。第103装甲旅団と並行してフランスで再建された第25装甲師団は9月から東部戦線に復帰し、ナレウ川で共に戦っていたが、11月にどちらもワルシャワ郊外に後退し、第104装甲旅団はこの師団に統合された。

第105装甲旅団

 第103装甲旅団は第25装甲師団の生き残りなのに、師団の再建に生存者が使われず、小編成のまま前線配備され続けた。おそらく師団の再編を待つ間、前線が駒不足になることに耐えられなかったのである。ソビエト軍の師団が全滅するまで摩耗し続けたのもこれと同じで、補充担任地域から遠く離れ過ぎていたうえ、前線に終始余裕がなかったせいではないかと筆者は考えている。

 第18歩兵師団は1934年に創設された、最優良の歴戦師団のひとつである。フランス戦後に自動車化歩兵師団となり、スモレンスク包囲戦などに働いた。その後北方軍集団に移り、イリメニ湖とラトガ湖を結ぶヴォルホフ川周辺で陰気な包囲任務についていた。クルスク戦直前に装甲擲弾兵師団へ昇格し、中央軍集団に移ったが、待っていたのは後退戦であった。そして1944年の熱い夏、師団は崩壊した。

 1944年9月、ポーランドのミーラウにおよそ950人となった師団の生存者と補充人員が集められ、1個装甲大隊(パンター約50両)、1個戦車猟兵中隊(IV号駆逐戦車10両、自走対戦車砲6両)、1個装甲擲弾兵大隊、1個自走重歩兵砲中隊、1個装甲工兵中隊から成る旅団が編成された。旅団はベルギーに送られ、第7軍のもとで後退戦闘に投入された。間もなくアーヘンが戦場になった。成すところなく損害を被った旅団は、早くも10月には第9装甲師団に編合されて、2カ月の歴史を閉じた。

第106装甲旅団"フェルトヘルンハレ"

 第60歩兵師団はダンチヒの警察部隊などが中核となり、師団未満の集成部隊としてポーランド戦に参加したあと師団に昇格した。そしてフランス戦後に自動車化歩兵師団となり、ユーゴスラビア戦に参加した後はウクライナで戦い続け、スターリングラードで全滅した。1943年6月に再建された師団は、間もなくフェルトヘルンハレ装甲擲弾兵師団と改称された。フェルトヘルンハレはミュンヘンの記念建築物で、ヒトラーたちの反乱が1923年に制圧された場所であることからNSDAPの聖地とされた。拙作『なのはの総統一代記』では重要な戦いと演説の舞台となる。

 1943年に中央軍集団へ配属されてビテブスク防衛に加わり、1944年春には北方軍集団の指揮下でナレフ川防衛に協力した。バグラチオン作戦ではソビエト軍の奔流を食い止めるべく戦ったが及ばず、壊滅的打撃を受けた。

 この師団も結局再編されて10月にはハンガリーに戻って来るのだが、それまで待てないと考えたのか、生き残りと補充兵のそれぞれ一部を割いて第106装甲旅団"フェルトヘルンハレ"が作られた。1個装甲大隊(パンター33両)、1個戦車猟兵中隊(IV号駆逐戦車11両、IV号対空戦車4両)、1個装甲擲弾兵大隊、1個装甲工兵中隊から成っていた。直ちに西部戦線に送られ、主にアルザス・ロレーヌで遅滞戦闘を続けた。1945年に入るとケルン=ボン地域に退却し、最後にはルール=ポケットで包囲され終戦を迎えた。

第107装甲旅団

 第25装甲擲弾兵師団も第18装甲擲弾兵師団と同じく、フランス戦後に自動車化された優良師団である。1941年のうちに南方軍集団から中央軍集団に移り、1944年夏に中央軍集団の大半と運命を共にした。師団がゼロから新編成される一方、生き残りが旅団となったのは第106装甲旅団などと同様である。

 9月に西部戦線へ投入されたが、彼らは少しだけ遠すぎる橋に行ってしまった。マーケット=ガーデン作戦が始まったとき、旅団はゾン橋の近くにいた。アメリカ軍は橋を奪取できず、そうこうするうちドイツ軍はゾン橋を爆破してしまった。その後マース川の西側に確保した橋頭保でアメリカ軍の前進を遅らせ、11月になって撤退した残余は、ようやく再建が成ろうとしていた第25装甲擲弾兵師団に復帰した。

第108装甲旅団

 第108装甲旅団は第107装甲旅団より編成が1ヶ月遅く、核になる現役部隊もなく訓練部隊からの編成だったので、戦力化が遅れていた。だからマーケット=ガーデン作戦が始まったとき、旅団は編成未完のまま、遠方から他の部隊とともにナイメーヘン方面に前進する羽目になったのである。

 結局、旅団はアーヘン周辺で防御に入らざるを得なかった。10月末、生き残りの一部は第103装甲旅団司令部のもとで戦闘群に加わり、旅団は解散した。しかし司令部人員の一部は第150装甲旅団司令部に転用された。ベルリンまで転戦した第103装甲旅団に加わるのと、オットー・スコルツェニーのもとでアルデンヌ攻勢に参加するのと、どちらをより数奇な運命と呼ぶべきであろうか。

第109装甲旅団

 戦火の迫るブダペスト近郊で、第108装甲旅団と同じタイミングの1944年7月24日に編成された。第25装甲師団を再建するはずの人員から一部を割いて第103装甲旅団が作られたのだが、同じプールからさらにいくらかを割いて、中央軍集団の生き残り歩兵と新兵を合わせて編成したのがこの旅団である。同種の旅団は大慌てで戦線の穴埋めに放り込まれたが、もはやそれすら許されない状況であった。ハンガリー政府の向背が怪しくなっていたからである。無言の圧力を首都にかけ続けた旅団は、それでも10月以降かき集められた装甲師団群に伍して、主にデプレツェン方面で戦った。11月になると、残余は再建後にハンガリーで戦っていたフェルトヘルンハレ装甲擲弾兵師団に編合された。

第110装甲旅団

 フェルトヘルンハレ装甲擲弾兵師団は1944年7月に壊滅と判定され、9月の再編成を待たず第106装甲旅団"フェルトヘルンハレ"が7月24日に発足したことはすでに述べた。再編成も始まらない8月、さらにこの兵団と補充兵から第110装甲旅団が作られ、ブダペスト近郊に駐留した。第109装甲旅団の項にあるように、ハンガリー政府に対する圧力の意味があったと思われる。母隊のフェルトヘルンハレ装甲擲弾兵師団が大急ぎで再編中の9月、ウクライナで新たに壊滅した第13装甲師団の残余がハンガリーに戻ってきたので、第110装甲旅団を編合して再編することになり、旅団は消滅した。第13装甲師団は翌1945年1月にブダペストでフェルトヘルンハレ装甲師団(11月昇格)とともに壊滅し、ふたつの残余をさらに合わせてフェルトヘルンハレ第2装甲師団となってスロバキアで戦った。

第111装甲旅団

 ヴェストファーレン(第VI軍管区)で編成された警備部隊を母体としている。旅団番号から見て、9月に集結したとき旅団としての名称と番号が付されたのだろう。他の旅団同様、兵質は期待できないが装備だけはIV号戦車・パンター戦車合計36両、IV号駆逐戦車11両など最新鋭のものだった。

 ロレーヌのアラクール周辺での反撃作戦に参加したが、イギリス戦車部隊に大打撃を与えたグッドウッド作戦の裏返しとして、ヤーボの介入できない濃霧の中での作戦であったにもかかわらず、アメリカ軍は起伏の多い地形を利して待ち伏せ、寄せ集めで連携の悪いドイツ戦車群を撃破した。旅団は10月1日に早くも除籍された。

第112装甲旅団

 シュレジェンとズデーテンラント(第VIII軍管区)で編成された警備部隊を母体としている。1944年に編成されると第21装甲師団の戦術的指揮下でロレーヌのナンシー周辺に出動した。第111装甲旅団同様に反撃はうまくゆかず、10月に同師団へ編合されて消滅した。

第113装甲旅団

 第112装甲旅団と同様の出自を持つ。第15装甲擲弾兵師団とともにアラクール周辺での反撃作戦に参加し、第111装甲旅団と同様に大損害を受け消滅した。

第150装甲旅団

 1944年11月に編成され、オットー・スコルツェニーが旅団長となった。OKW系部隊、言いかえればブランデンブルク部隊の寄せ集めにSS特殊部隊も加わった。アルデンヌ攻勢においてアメリカ軍の制服を着て戦ったのは旅団の一部であり、大部分はヒトラー・ユーゲントSS装甲師団とともに普通に戦い、普通に大損害を受けて旅団としては消滅した。

その他の装甲旅団

 1945年になって、装甲旅団"フォン・フーベ"、"クアラント"が作られた。このころになると部隊名と実戦力が照応しなくなって来るので、旅団列伝としてはここまでとしたい。

100番台戦車旅団の編成経緯

 Haasler[2011]は丁寧にブンデスアルキーフなどの資料を渉猟した力作である。これによると最初に戦車と機械化歩兵による火消し部隊としての戦車旅団編成が公式記録に現れたのは、1944年7月2日、バグラチオン作戦の戦訓を踏まえた総統の提案である。記録者はOKHであり、まだ参謀総長はツァイスラーである(ただしすでに心臓発作を起こして、後任が決まらない状態である)。「約12個」という数字はヒトラーが切り出したようである。

 7月3日になってOKHは、6つの装甲師団から12個の戦闘団を切り出すことを提案した。もっとも6つのうち5つは戦車連隊に1個大隊しかなかったので、この提案自体が「12個」という総統命令に無理やりつじつまを合わせたものである。この提案は「not accepted」とHaaslerは書いているが、主語がない。acceptしなかったのはおおかた、戦車の分散運用に常に反対するグデーリアン戦車兵総監であろう。

 さて、戦車兵総監はそれでもこの計画に従い、「必要とされる」編成の青写真を描いて見せる。7月7日である。これを受けて7月11日、OKHは第101~第110装甲旅団の編成を予備軍司令官(まだフロム大将)に命じる。予備軍司令官に命じるということは、実戦部隊の改組で編成しないということである。そして2個減っている。第101~第104は遅くとも8月15日までに戦闘可能にすることという。

 ちょっと待っていただきたい。すでに第101(2代目)装甲旅団と第102装甲旅団は、話のきっかけになったバグラチオン作戦に即応して東部戦線で戦っているではないか。

 少しHaasler[2011]を先まで読むと、第105装甲旅団長を拝命したVolker少佐の未公刊インタビューに基づく記述が出てくる。ベルリン近郊で連隊指揮官課程を受けていたVolkerは、7月13日にオーバーザルツブルクで他の参加者とともにヒトラーから「5つの装甲旅団と10の歩兵師団を新設」する意義について演説を受け、その場で旅団長に任じられた(p.24)。

 たぶんこのとき言及されたのは、第103~第107装甲旅団である。例えば第110装甲旅団が第106と同様にフェルトヘルンハレの人員プールから編成されることは早期に決まっていたようだが、第108以降の編成は少し遅れた。そして器材や人員の到着は遅れ、その間に状況も変わって、当初の予定であった火消し任務とは違った緊急任務をあてがわれた旅団も多かったのは、上でみたとおりである。

100番台装甲旅団の標準的編成

 Haasler[2011]によると、1944年7月18日になって戦車兵総監部は装甲旅団の編成についてKStNの追加と旅団の全体像を含む秘密指示を出した。なおKStNというのは大雑把にいって、中隊以下の単位にしか存在しない。「連隊本部」「師団司令部」といったKStNもあって、それらを組み合わせて旅団や師団を編成する命令が出る。さらに8月6日に部分的な修正命令が出る(pp.8-12)。

 ところがHaasler[2011]は、それらを基本的にKStNでだけ表示している。つまりフライブルクのドイツ連邦公文書館とドイツ語でやりあってKStNをダウンロードできる人だけが、その正しい内容を読めるのである。

 Haaslerもそのへんの落としどころは用意していて、pp.510-511に各中隊の兵員装備一覧表があって、だいたいのところはわかる。KStNもネットで手に入ったり、紹介記事があったりするものもあるので、だましだまし書いていこう。

士官ベアムテ
(軍属)
下士官主な装備
旅団司令部と司令部中隊9038144Sd.Kfz.251系列15両
Sd.Kfz.251系列7両を持つ装甲偵察1個小隊を含む。
4人乗り乗用車、バイクまたはケッテンクラッド1台、
下士官1人兵4人から成る偵察班4個を含む。
装甲擲弾兵大隊本部501231Sd.Kfz.251系列8両
装甲擲弾兵第1中隊4035110Sd.Kfz.251系列21両
中迫撃砲2、短砲身75ミリ砲2、
20ミリ3連装対空機銃6を含む
装甲擲弾兵第2中隊4035110Sd.Kfz.251系列21両
中迫撃砲2、短砲身75ミリ砲2、
20ミリ3連装対空機銃6を含む
装甲擲弾兵第3中隊3038105Sd.Kfz.251系列22両
20ミリ3連装対空機銃12を含む
装甲擲弾兵第4中隊303660Sd.Kfz.251系列20両
20ミリ3連装対空機銃18を含む
装甲擲弾兵第5中隊3034110Sd.Kfz.251系列24両
28/32cmロケット2両分、
120mm重迫撃砲8、
短砲身75ミリ砲6を含む
装甲擲弾兵大隊
後方中隊
4343144トラック各種48台、
マウルティア5台他
通信班、大隊医療班、車両修理班、補給物資班、弾薬器材班、
管理班(炊事、経理、縫工手など)
戦車大隊本部502733パンター指揮戦車3両
IV号対空戦車(37mm)4両
戦車大隊第1中隊303727パンター戦車11両
戦車大隊第2中隊303727パンター戦車11両
戦車大隊第3中隊303727パンター戦車11両
戦車大隊戦車駆逐中隊303428IV号駆逐戦車11両
戦車大隊後方中隊526420120ミリ3連装対空機銃3
Sd.Kfz.251系列は配備なし
装甲工兵中隊4028147Sd.Kfz.251系列23両
2個小隊+火炎放射小隊
Sd.Kfz.251/16 6両を23両に含む
戦車修理工場隊322510218tハーフ3両
'Bergeschlepper 35t'1両
60トン段列10843

 兵の中にはHiwi(志願したソビエト軍捕虜)を含む。ただしほとんどのHiwiが後方中隊、修理隊、工兵中隊に属している。

 装甲偵察小隊は士官1、下士官7、兵33という小所帯である。7台のうち3台は251/1、4台は251/5である。251/5は本来は工兵用で、座席を少しつぶしてゴムボートなどの機材が積めるスペースを確保してあった。なぜここで工兵戦闘車が使われているかというと、人数が少ないからである。だいたい251/5は1944年には251/7に置き換わっていたはずなので、この251/5は251/1の座席をちょっと外しただけとか、そういった代物であるかもしれない。

 偵察班はErkundertruppで、Haaslerはterrain reconnaissance sectionと訳している。ドイツ軍のaufklarungはreconnaissance by force(威力偵察)を中心とするもので、だいたいそのへんにいるのはわかっている敵の機関銃配置やら戦意やらを調べるために、小戦闘も覚悟で行うものである。Erkundはおそらく敵の存在を前提としない偵察で、もし異変を見つけた時のためにオートバイの伝令がついていくのである。もっとも実際、「洗礼」と呼ばれる地形把握の作業は「パンツァータクティク」にも記載があった。

 短砲身75ミリ砲と書いているのはSd.Kfz.251/9のことである。同様に20ミリ3連装対空機銃は251/21のことで、Haaslerの表も明らかに当時のもので「2cm」と明記されているからこう書いておくが、実際に第105装甲旅団が受け取ったものはすべて15ミリ3連装の初期型だった。特に第4中隊はほとんどの車両が251/21で対空中隊という位置づけだった。なお戦車大隊後方中隊にも3基配備されているが251系列の配備がなく、おそらくけん引式のものが配備されたのだろう。MG151/15ないしMG151/20は単装・3連装ともに、おそらく現場で間に合わせの銃架が多数作られた

 28/32cmロケットと書いたのはNebelwerfer 41を撃ち出すためのWurfrahmen 40である。これはSd.Kfz.251/1に6基のロケットを固定する枠を外付けしたもので、車両のタイプはと聞かれるとSd.Kfz.251/1と答えるしかないのである。

 後方中隊はVersorgungskompanieを意訳したものである。直訳すれば支援中隊か補給中隊のほうが近いかもしれない。概ね1943年までは各中隊に行李・段列があって、実態としては大隊の分がまとまって行動し、各中隊の食事の世話や武器の補修などを行っていた。1944年以降、こうした非戦闘要素は大隊のVersorgungskompanieなどにまとめられ、戦闘部隊の(中隊以下の)編成表から取り除かれた。このコンセプトに沿って書かれた編成表にはf.G.(freie Gliederung)と書かれている。筆者も長いこと、いよいよ末期になったから編成表が守れなくなって「自由にしてよい編成例」が出てきたのかと思っていたが全然違った。「シュガーフリーの甘味料」などと同様、「非戦闘部門を抜いた編成」というニュアンスなのである。Versorgungskompanieの編成表であるK.St.N.1180(fG)はググると出てくるので我と思わん方は挑戦されたい。

 なおPkw(乗用車)やLkw(トラック)の項で「o.」「gel.」の数字が別々に集計されていることがある。gel.はgeländegängig、つまり「不整地走行できる」ということで、o.はドイツ軍がtをチェコスロバキア製、rをソビエト製などとコーディングしたときに「(国籍を問わず)商用車=handelsüblich」として割り当てたコードらしい。ごくまれに、o.ではなくてziv.と表示されていることがあるが、これはもちろんZivil(民生用)の略であろう。

(参考:)Kfz. of the Wehrmacht

 さて、たった1両だが難しい問題がBergeschlepper 35tである。例えばBergeschlepper (Fahrgest.Pz.Kpfwg.III)と並列してあるK.St.N.もあるのだが、Fahrgest.はFahrgestell(シャーシ)のことであろうから、どう見てもこれはIII号回収戦車である。ではBergeschlepper 35tとは何か。

 素直に考えると35(t)戦車であるが、1944年にもなってただでさえ足回りにいろいろ問題のある35(t)が、まだあちこちで牽引車として現役とは思えない。

 ところで1943年11月1日付の「戦車回収中隊」(K.St.N 1189)という編成表がある。これは第1小隊・第2小隊が18tハーフトラック9両、第3小隊がBergeschlepper 35tを9両という構成の部隊である。ところがこのK.St.N.の末尾中にこんなことが書いてある。

Ausstattung reinmassig mit Bergeschlepper 35t (Sd.Kfz.20) der T-34 oder KV-I.

このあと「18tハーフ2台につきBergeschlepper 35tを1台……」といった記述がつく。そして上のドイツ語は

純粋にT-34またはKV-IのBergeschlepper 35tによる装備

 と読める。

 つまり、Bergeschlepper 35tというのは捕獲T-34/KV-I転用回収車のことだと考えられるのである。

 旅団の編成定数はこれらを合計して、兵員2089(Hiwi78を含む)、戦車・駆逐戦車47、対空戦車4、Sd.Kfz.251系列157などとなる。

参照文献

  • Haasler, Timm[2011]Hold the Westwall: The History of Panzer Brigade 105, September 1944,Stackpole Press(pbk.), hardcover version 2007 from J.J.Fedrowicz
  • Stoves,Rolf[1986] Die gepanzerten und motorisierten deutschen Großverbände 1935-1945: Divisionen und selbstständige Brigaden, Podzun-Pallas

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Last-modified: 2017-08-31 (木) 04:33:05 (535d)