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電撃戦という何か(2014年3月完)

まえがき他

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  • まえがき
  • 電撃戦という言葉
  • 「清廉潔白な国防軍」
  • 空軍と地上支援

グデーリアン以前のドイツ軍戦車戦研究

 ヴァルター・ネーリングはルッツ快速兵総監のもとでグデーリアン参謀長の同僚だった人物です。Nehring[1984]はなにしろ英訳がないのでしんどいのですが、ここではほんのつまみ食いにとどめます。

 ドイツ騎兵はイギリスの同族たちと違って、装甲部隊と一緒に戦って偵察任務をこなすことは騎兵の任ではないとして、参謀本部が快速兵総監にこの件を諮問するに任せていました。1938年になって4つの軽機械化師団が作られ、その自動車歩兵連隊にはKavallerie-Schützen-Regiment(騎兵科歩兵連隊)という名前がつくのですが、そのほとんどは歩兵部隊から基幹要員を出しています。オーストリア軍の快速師団を基幹とした第4軽機械化師団はもとの師団長であるフビツキ少将が留任しましたが、残り3つの師団長にはヘップナー(のち第4装甲軍司令官、ヒトラー暗殺未遂事件に連座し処刑)、シュツンメ(エルアラメインで戦病死)、クンツェン(1941年から装甲軍団を率いるが1942年に西部戦線に回され、1944年秋に罷免され予備役に)という3人の騎兵出身将官が当てられました。騎兵を集めて師団を作ったというより、騎兵出身士官の出世が頭打ちにならないための配慮という色彩が強いですね。

 話を戻すと、げたを預けられた快速兵総監部では1932年、装甲部隊による偵察を実地に試す演習を実施しました。これに先立つ準備会議の様子をネーリングが書いています。話題になったのは、敵がいるかもしれない地域を偵察してゆくとき、どれくらいのスピードで移動できると想定するかという演習審判上の判定基準でした。

 まず歩兵は時速4km。いや速いですね。フル装備で様子をうかがいつつの時速4kmは速いです。続いて騎兵は時速8kmないし10km。さて、自動車化部隊は……時速20km。えっ? そうなんです。グデーリアンは怒ったのです。40kmは行けるよと。ところがですね。野戦電話のケーブルを伸ばしながら通信隊が追随して、不要部分を巻き取って回収していくと、この速度になるのだそうですね。

 あとで「時速10キロを越えろ」という項を用意していますが、「戦車が騎馬兵について来られないスピードを出す」というのは新時代の幕開けなのです。それを境として当の騎兵はもとより、その軍全体が対応を迫られるのですね。その話はいずれまた。

 ああ、この項の本題がわからなくなってきましたね。本題は、ドイツ軍の機械化についてグデーリアン以前に決まっていたことは何だろうねということです。それがわからないのにグデーリアンの貢献なんか論じられませんよね。

 グデーリアンは1922年まで戦車とも自動車とも関係のないキャリアを送っています。ほんの短期間だけ中隊長をやりますが、ほとんどの期間は通信士官として無線電信や暗号取扱の仕事をしていたようです。この年に自動車輸送大隊付、続いて快速兵総監部で少しだけ仕事をします。そのあと1924年から1927年まで陸軍大学校(当時は7つの歩兵師団に属する教育課程として存在を秘されています)の教員をやります。ネーリングによると、グデーリアンのここでの専門は1806年以降のナポレオン戦争と、1914年以降の独仏騎兵史でした。

 ここでやっと12年ぶりに昇進して少佐となり、参謀本部配属、1928年から併任でkraftfahrlehrstab(自動車部隊訓練本部)の戦術教官(Taktiklehrer、あるいはAusbilder für Taktik)となります。ネーリングによると、戦車戦術について文字通り講義(unterricht)をするのが役目だったようです。海外の第一次大戦関係の出版物、そして国内の指令類を渉猟して、ドイツに戦車なんかないのに戦車戦術を講じていたということです。だからここでフラーやリデル=ハートの著作との接点が出てくるわけですね。もっとももう少し偉くなっても、彼らが書く戦車部隊独立論・拡張論への書評をドイツの軍事雑誌に載せる形で、彼らの著作を自分の装甲部隊拡張論の後押しに使ってはいたようですが。

 そういうわけで当面の問題は、1928年までにドイツは戦車について何を知り、何を決めていたかです。

 House[1984]が説くところでは、ドイツ(プロイセン)の伝統はふたつありました。ひとつは狭い正面での突破や包囲・側面攻撃の重視、もうひとつは独断専行の重視と許容です。後者については『Command Culture』という痛快な本があるのですが、翻訳の話があるようですので、あえてこの本の内容紹介は控えておきます。「独断専行の重視と許容」があると何が違うかというと、イギリスやフランスではいちいち進退を上級司令部に仰ぐのが常道で、そのためにしばしば機会を逸するのに対し、ドイツでは勇み足や誤断があってもむしろ現場に近い者に判断させるということです。Auftragtaktik(訓令戦術)というキーワードがあって、Auftragには「依頼」というニュアンスがあります。状況はこうである。上官としては結果的にこうなってほしい。そこを命令にしっかり書いて理解させ、まあ大雑把な行動指示は出すとしても、現場で状況が違っていたり変わったりしたら、上官が望む結果を出すために大胆に命令にないことをやれ……ということです。たぶん。

 だからここまでは、もともとプロイセン軍が持っている伝統で、グデーリアンが付け加えたものでも、電撃戦の新味でもないことになります。

 狭い正面での突破や包囲・側面攻撃も、電撃戦の特徴ですが、それは昔からプロイセンが好んだ戦い方だとハウスは言います。

 Corum[1992]によると、第1次大戦が終わり、参謀本部は保持を禁止されましたが、その指導者であるゼークトは国防省軍務局(Truppenamt、兵務局とも)という形でそのコアを残しました。なおゼークトと後任のハイエ(在任期間を合わせると1920年~1930年)は統帥部長と軍務局長を兼任していました。陸軍総司令官兼参謀総長ということです。ハイエの後任からふたつの役目が分担されるようになります。

 1921年9月にゼークト軍務局長は「諸兵科連合の指揮と戦闘」(F.u.G)と呼ばれる指針を出しました。そこではすでに述べたように、ドイツの伝統にのっとって諸兵科連合の重要性がうたわれ、現在保有を許されない兵器との共同戦闘にも熟達し、それらが得られなくても機動性、練度、地形や夜間の利用などによって弱みを克服できると信じて攻撃性を保てと述べられていました。そして「士官は状況に応じ命令を変更し、放棄するすべての責任を負う。常に全体性の中で行動せよ」とも。

 しかし高速な戦車が現れていなかったこともあり、当初想定されていたのは第1次大戦通りの戦車運用であり、「奇襲的に、大量に、戦場の重心において」用いるべきものと指導(というより想定……持てないんですから)されていました。演習では、航空機の登場をサイレンやサーチライトで表現するなど四苦八苦しながら、歩兵と砲兵の連携、歩兵と重機関銃の連携などが試されました。歩兵陣地の後ろから頭越しに重機関銃が射撃するような戦法も、こうした中で体系化されました[もっとも、後方陣地のよく防御された重機関銃座で抵抗すること自体は第1次大戦でドイツが多用した戦法でした]。騎兵部隊を非騎兵部隊指揮官の下につけ、騎兵のスピードをどうしたら生かせるか他兵科に考えさせたりもしました。

 ゼークトの時代には軍の中立性を守るための微妙な問題がありました。1920年代前半には現実問題として国家転覆の企てが時々起り、次はいつ起こるともわかりませんでした。そのとき軍はどちらにつくのか、社会民主党政権には確信を持つ理由がありませんでした。ですからゼークトは左右どちらの急進的な動きにも雷同せず議会と政権を守る一方、それと交換のようにして、国防軍に政権の口出しをさせないようにしました。これは社会民主党との摩擦を生み、1926年についに忍耐の限界に来たゼークトは辞任しました。

 ゼークト自身は在任中、機動的な攻撃力の核となるのは騎兵だろうと思っていたようです。しかしゼークトは諸兵科連合の徹底についてはしっかりと基礎を築いて行ったのは確かです。

 ここから先はHaveck[2003]によります。1925年、ドイツ兵器局は初めて戦車の秘密試作を依頼しました。これはI号戦車などではなくて、グロストラクターに代表される試作戦車群に至る協議の始まりととらえるべきでしょう。また1926年、オーストリア陸軍のフリッツ・ハイグル(Fritz Heigl)少佐が書いた「戦車読本」は、歩兵を戦車のスピードに追随させるため、歩兵輸送車を作るべきだと説きました。ただしSd.Kfz.251の開発が始まったのは1937年であり、すぐにドイツ軍が飛びついたわけではありませんし、熱心に読んで士官教育にも取り入れたソビエトは、ついにこの種の車両を第2次大戦中には投入しませんでした。同じ1926年、ソビエトと1922年に結ばれたラパッロ条約の秘密条項に基づき、戦車についてもソビエトの協力を得られるよう交渉が始まり、最終的にはカザンの秘密演習場設立につながります。

 これらはまだゼークト在任中の出来事です。

 ドイツは演習用戦車として最初のうちは学芸会のお馬さんのように人が入った戦車と、自転車が入った戦車を使っていました。これでは世界的に快速戦車が普及しても実際のスピードでは動けないわけです。1928年になって「ハノマグ製エンジンのついた偽戦車」が登場し、やっとこの問題が解決されます。[おそらくHaveckの指す年代は正確ではありません。Vollert[2009]によると、1926年にビューシング社製トラックに流線型の鉄板ボディーと砲塔っぽい円筒を載せた偽戦車が登場しました。この車両はタイヤが小さく、不整地性能に問題があったため、1927年には当時ハノマグ社が生産していた全幅1.2mの超小型乗用車を使った小型の偽戦車があらわれました。その後は各種の自動車、トラクターなど様々な車両がベースにされ、様々な出来の偽戦車が作られていきました。]

 演習で高速戦車と歩兵の組み合わせを試してみると、歩兵の火力(迫撃砲など歩兵が持つ支援兵器も込みでの話だと思いますが)で支援を受けるメリットは大きいことがわかりました。むしろ「対戦車兵器を充実すれば戦車は無用ではないか?」という疑念すら提起されるほどでした。そして1929年秋、第6快速兵大隊(6. (Preuß.) Kraftfahr-Abteilung)はオートバイ歩兵、ダミー戦車、ダミー装甲車の3個中隊編成となり、第7快速兵大隊がすぐこれに続きました。1930年にグデーリアンは第3快速兵大隊長に異動します。このころには第3快速兵大隊はダミー対戦車砲が加わった4個中隊になっていましたが、実験部隊として唯一でも最初でもありません。ただ「第3」快速兵大隊長であることは重要です。当時はヴェルサイユ条約で歩兵師団を7つしか持てません。ベルリン第3軍管区の第3師団に属する第3快速兵大隊は、ベルリンの快速兵総監部と最も緊密な関係にあるわけですから。

 グデーリアンが実地に何かを試し始める前に戦車と歩兵を含む諸兵科連合のメリットはすっかり共有されており、それを前提とした部隊編成が広範に始まっていたのは確かです。

 グデーリアン中佐は1931年10月1日付でルッツ快速兵総監の参謀長となります。ルッツはそれに先立つ4月からその職に就いていました。ルッツは戦車主兵に積極的であり、この人事自体が軍上層部のゴーサインであったとも取れます。ヒトラー政権になる前だったことは記憶にとどめてもいいでしょう。1931年にヒンデンブルクはヒトラーその人を破って再任され、シュライヒャーの権力はピークに達していました。

 グデーリアンの成果は、まず何よりも軍政世界で突っ張り、諸兵科連合の中で戦車兵が主導権を取る戦車師団を創設し、戦車の大半を戦車師団に集中したことといえるでしょう。ですからむしろ、初期の戦車師団が戦車偏重であることについて、一定の責任を負うものとも考えられます。「時速10kmを越えろ」で述べるように、この構想はフラーが第一次大戦中に示し、新戦車が完成しなかったことでお蔵入りになった構想に似ています。

 ポーランド戦ではフランス戦のような大規模な集中と突破はありませんでした。これは高級指揮官たちが戦車師団そのものを分散配置したからで、フランス戦での集中同様、良かれ悪しかれグデーリアンの頭の上で、もっと偉い将軍たちが決めたことです。

 第二に、戦車の仕様や戦車部隊の編制について細部を定めたことです。Nehringによると、III号戦車の将来の主砲を60口径50ミリ対戦車砲より短い42口径50ミリ砲としたのは、狭い道で砲塔が回せるようにとの配慮であったそうです。このように、以後の戦訓によってやっぱりマズいと分かったものもありましたが、とりあえず回るシステムを一式作り出すのは大変なことです。Jentzによると、何両までなら小隊長が指揮できるか……などと八八艦隊を想起させる実験もやったようです。

 イギリスの大戦前半を支えたマチルダIIとバレンタインには様々な発展型がありますが、エンジン出力は200馬力を上回りません。しかしIII号/IV号戦車は最初から300馬力のエンジンを積んでいます。高級車なのです。構想当時のさらに古い戦車と比べれば隔絶していたに違いありません。それを押し通してしまったのは確かに偉業です。

 第三に、Houseが指摘することですが、全戦車に無線機を装備して専業の無線士をつけ、指揮官車の中距離無線機や通信隊の長距離無線機を介して大きな無線網に組み込んだことです。無線機はついていても車長兼無線士兼砲手が戦闘中にそれを使えないのでは、有機的なチームプレイはできません。これは通信兵であるグデーリアンが押し通さなければ後回しになったかもしれません。

ヒトラー抜きの再軍備計画

 Corum[1992]によると、ゼークトが職を辞した後、政府は急に国防計画の策定に取り組み始めます。つまり親玉がいなくなったので、国防軍は政府の言うことを聞くかもしれない……ということですね。政治と軍の結びつきが強まったことは、ヒンデンブルク大統領と私的なパイプを持ち、1926年から国防省でWehrmachtsabteilung(政務課?)の課長を務めていたシュライヒャーに暗躍の余地を与え、やがて社会民主党が政権から追い出される一因を作るのですがそれはともかく。この時期はいわゆる再軍備、つまりヴェルサイユ条約の制限を超える軍備がこそこそと話し合われ始めた時期と考えることができます。

 この軍備計画に関する記述は、私の手に入る文献では断片的にしか出てこないのですが、Richhardt[2002]の説明が比較的詳しく順を追っているので、これに従って説明することにします。この学位論文は、戦間期と大戦期のドイツ士官教育(と将校団の構成や雰囲気)がどのように変化していったか、三軍それぞれについてたどった労作です。ただその前に、当時の政治状況についておさらいしておきましょう。

 当時の国防大臣は、第1次大戦中の鉄道輸送計画を取り仕切ったスーパー鉄っちゃん、グレーナー中将でした。Corumはゼークトはシュライヒャーを嫌いつつも手腕は認めて重用していたと言い、Wikipediaによるとグレーナーはシュライヒャーがお気に入りであったようです。1929年にシュライヒャーは少将に昇り、グレーナーの大臣官房長に異動します。

 ミュラー内閣は社会民主党、ドイツ南部に多いカトリックを支持基盤とする中央党、そして人民党の連立政権ですが、最後の人民党はハイパーインフレを抑えて名を挙げたシュトレーゼマンが党首でした。もともとこの党は資本家を代弁する党であり、シュトレーゼマン自身がもともと実業家でした。それが労働者政党などとも連携するようになり、この内閣にも加わっていたのです。

 ところがそのシュトレーゼマンが1929年に病死し、相前後して世界大恐慌の嵐が吹きました。シュライヒャーが暗躍して、軍と折り合いの悪い社会民主党を政権から追い出し、中央党のブリューニングを首班とした政権を立てました。1930年のことです。

 当時の憲法には、議会が混迷して必要な法律が通らないとき、大統領緊急勅令を当座の法律代わりに発布できる規定がありました。シュライヒャーはすでに軍出身のヒンデンブルク大統領に近づき、助言できる立場にいましたから、シュライヒャーとヒンデンブルクに頼るしかない少数与党から首班を出している限り、シュライヒャーと軍の言い分が通るはずでした。中将になったシュライヒャーは大恩あるグレーナーを国防大臣のいすから追って、その座につきました。

 先に述べたように、ルッツとグデーリアンが快速兵総監部に赴任したのは1931年です。1933年に始まるヒトラー政権の軍拡以前に、(ヒンデンブルク大統領の黙認のもとに)シュライヒャーが政治面の汚れ仕事を進め、ヴェルサイユ条約を超える陸軍を持つための動きは活発化していたわけです。もちろんこの点を強調すると戦争責任問題が拡大しますから、少しずつこそこそと語られているわけですね。

 しかし国民の不人気はどうにもならず、最後にはシュライヒャーは操る相手を失い、自らが首相となるのですが、その不人気を自分が被ることになり、退陣を余儀なくされました。そのあとのヒトラー政権樹立を阻止しようとあれこれ動いたことが、後年暗殺されるきっかけを作ったのでしょうが、ここではあまり関係ありません。

 Richhardtによると1928年、社会民主党のミュラー内閣がひそかに検討した常設歩兵16個師団の拡張案があり、防衛のみに適する規模の「平和維持軍」とでも言うべき構想でした。そしてシュライヒャーが暗躍している間に、1927~28年には5年近くかかっていた士官養成課程が1933年には2年で終わるほどに短縮されてゆき、ヴェルサイユ条約で4000人に制限された陸軍士官の総枠を考え、上限200名が守られてきた士官候補生受け入れ数は1932年に359人、1933年には500人となりました。ヴェルサイユ条約を越えて軍備を拡張する動きは、ヒトラーを待たずに始まっていたのです。ヒトラーは首相指名を受けると、ヒトラーの心酔者だったブロンベルク大将を仲介者として、軍に接近し、突撃隊が軍に取って代わるアイデアをきっぱり放棄しました。1928年の案から、最新の案は平時21個師団、それと同数の予備役兵士をもって有事には30万人陸軍を実現するというものでした。

 だいたい旧ドイツ帝国の予備役は迅速に大量の兵員を呼び集められる優秀なシステムで、第1次大戦序盤の西部戦線でドイツが押せたのも動員スピードの差がひとつの要因でした。ですからヴェルサイユ条約はしつこいほど、ドイツが予備役のプールを持てないよう制限していました。それを破ろうというのです。

 もちろんヒトラーが命じた加速は、軍人たちの想定を上回るものでした。少しずつ短期訓練を受けた予備役兵士を増やして、1938年にようやく30万人体制を実現する計画であったところ、ヒトラーはそれならば徴兵制を復活させて一気に増やせばよいと言いました。そして1935年に実際に徴兵制度が復活したときには、ドイツ陸軍は警察の国境警備隊も併合して55万人態勢となるよう定められました。これに対応しようと士官の急速養成策が積み上げられていく様子をRichhardtは描いているのですが、この項ではここまでといたします。

 ヒトラーの登場に先立つシュライヒャーの時代に、すでにヴェルサイユ条約を破る気満々の動きがあったことは、ドイツにとっては不都合な事実であるのかもしれません。ただ東部戦線と西部戦線を持つドイツが、両方に対して守りを固めるにはヴェルサイユ条約下の歩兵7個師団、騎兵3個師団ではどうにも不足であることも事実です。もうひとつ付け加えれば、こうした政治的動きに深入りするシュライヒャー、ブロンベルクといった軍人たちは、多くの士官からは冷ややかに見られていたようです。シュライヒャーが暗殺されたとき、またブロンベルクがあからさまに不自然な経緯で失脚したときに、職業軍人がそれを救おうとする表立った動きはありませんでした。フリッチュのときは、ルントシュテットが単身総統官邸まで抗議に突撃したのですが。

時速10kmを越えろ

 時速10kmが騎兵の速度であることはすでに述べました。第1次大戦に登場した戦車の中では、マークAホイペット中戦車が最高時速13.4kmで、騎兵と肩を並べることができました。1918年8月に始まる連合軍最後の攻勢はHundred Days' Offensiveと呼ばれますが、このうちアミアンの戦いにおいて、ホイペット中戦車の1台が注目すべき動きをしました。背後に回り込んで砲兵陣地を攻撃し、大混乱を作り出したのです。運転士は殺され他のクルーは捕虜になってしまいましたが、車長のアーノルド少尉はDSC(殊勲十字章)を与えられました。Wikipediaのホイペット中戦車の項で、「ミュージカルボックスと名付けられた1輌のホイペット」と書かれているのがこれです。

 この戦いに少し先立つタイミングで、1918年5月にフラー(戦車兵科幕僚)が示した「plan 1919(The Tactics of the Attack as affected by the speed and Circuit of the Medium D tank )」は明確に「a shot through the brain」、つまり後方の司令部撃破を目標としてうたっていました。戦線から軍司令部まで18マイル、軍集団司令部まで45マイル、西部方面総司令部まで100マイル。そして当時考えられていた中戦車 mark Dは時速20マイル、最大行動範囲150~200マイルとされていました。超壕能力に優れ、橋を渡れないほどの大きさでもありませんでした。まさにこれが、「時速30km以上の戦車ができたとき、何ができるか」であったのです。

 はい、もうオチはお分かりですね。中戦車 mark Dは完成しませんでした。もっとも第1次大戦のほうが先に終わってしまったので、予算が無駄になっだたけで済んだのですが。強力なエンジンを積むと燃費が悪くなり、速度か行動半径を犠牲にせざるを得ません。「満タンで100kmも走らん。愛国心があるのかこの大食らい!」というやつです。当時はカタログスペックのどこを伸ばすとどこにしわが寄るのか、知識が十分でなかったので、やってみたら不可能事であったということですね。

 フラーの提案は、「mechanical transport 」で戦車に追随する歩兵を含んでいますが、最初の攻撃は戦車だけで行い、歩兵の任務は「 to form a mobile protective line in rear of the Medium D tanks」だと述べています。また、時速20マイルは騎兵には追随できないスピードですが、遅れつつでも追随できれば戦車部隊の間隙を散兵線で埋めることができるだろう、と述べています。

追記 1919年のイギリス軍では、「mechanical transport 」は絵空事ではなく現実でした。ロンドンバスが乗合馬車からの転換を終えたのは1914年でしたが、戦時中にはロンドンバスも徴用され、後方で歩兵を急速輸送するのに使われていました。ですから専用の兵員輸送車ができる前から、自動車輸送は実用化されていたということですね。

 1924年からイギリスは時速24kmの中戦車Mk.Iを生産に移しました。いよいよ騎兵がついてゆけない戦車の登場です。

 イギリスは、フラーが考えていたように戦車部隊だけを高速で動かすことを考えました。騎兵科と戦車兵科で激しい資源の綱引きが起こり、その一方で次の項で見るように、機動性を優先させ武装はあまり強力でない戦車が量産される結果を招きました。

 グデーリアンはドイツの軍人たちの中では、比較的この考えに近かったように思います。しかし諸兵科連合を重んじるドイツの伝統の中で、自動車に引かれた対戦車砲をはじめとする諸兵科の自動車化が並行し、戦車師団ですら戦車以外の比重が増して、戦車だけで突破する方向は立ち消えて行きました。

 ところが……です。

機甲師団は主に、大きな機動性と火力を必要とする任務のために編制されている。機甲師団には決定的な[重要]任務が与えられる。機甲師団はどのような任務でも遂行できるが、主な任務は敵後方での攻撃任務である。

 フラーが書いたのかと思う文章ですね。これは1941年5月に出されたアメリカ陸軍のField Manual 100–5, Operationsにある文章です。英語版WikipediaのM4中戦車の項にあるのですが、M4中戦車はまさに敵後方に突っ込み、戦車と戦いつつも非装甲目標を追い散らすためにある戦車なのです。だから両用砲でなければいけないのですね。

 付記:1944年版のFM 100-5を見つけました。確かに第1040項(306頁)にこの文章があります。

 アメリカでは戦車は歩兵科の支援兵器として扱われ、第1次大戦でフランス製戦車の部隊を組織したバットンなどはずっと冷や飯を食らってきました。ところが騎兵士官であったチャーフィーがマッカーサー参謀総長に話をつけ、まず騎兵の機械化としてキャタピラのあるcombat carを導入し、ついに「兵科(corps)ではないtank force」として独立を勝ち取ります。そしてドイツの成功を横目で見ながら書いたマニュアルがこれなのです。しかし1942年になると、北アフリカでの戦車戦が全然電撃戦になっていない現状から、もういちど歩兵支援、そういって悪ければ諸兵科連合の単なる一員としての戦車に位置づけを引き戻されてしまうのです。

 アメリカ戦車部隊が電撃戦を夢見たほんの数年、その数年に作られたM4シャーマンが連合軍の勝利を支えたわけですね。

かなしみのイギリス戦車

 あまりにも身もふたもないタイトルのBeale[2009]は、当時の軍人の回想などやや雑多な材料を使って、なぜイギリス戦車が(少なくともシャーマンを大量にもらうまでは)弱い戦車で損害ばかり出していたのかを説明する本です。材料はあちこちに並べてあるのですが、思い切った整理がなされていないのでちょっと読みづらいところがあります。House[1984]などと並べて整理しながらご紹介します。

 前項で触れたように、第1次大戦が終わった時点で、イギリスにおける戦車戦の指導者と誰もが認めるのはフラーでした。とはいえ、彼は1920年代を通じて大佐に過ぎません。いくらアイデアを出しても、もう少し偉い人がどう首を振るかが本当に問題なのです。

 フラーが未来の戦車戦として、艦隊同士の戦いのようなイメージを示したことはよく言及されます。先に説明した「plan 1919」も合わせて考えれば、敵中深く侵攻した猛スピードの戦車集団を探す我が戦車集団(あるいはその逆)……というイメージだったのでしょうか。1920年代を通じ、戦車兵科は他兵科との協力に消極的でした。1926年に歩兵旅団と戦車部隊(当時のイギリスには6個戦車大隊がありました)を組み合わせた実験部隊BEFが発足したのですが、House[1984]によると、戦車以外の部隊はあまりに自動車化されていないためスピードについて来られず、戦車兵科は他兵科を当てにしなくなったのだと言います。

 ちなみにBEFの指揮官に補されたフラーは、歩兵旅団長兼任の負担が重いので研究ができないと言い出し、ついに軍を辞めざるを得なくなります。フラーの最終階級は少将、リデル=ハートはなんと大尉です。退役大尉の身で新聞の軍事アドバイザーとしてマスコミに出たため、影響力が大きかったのです。また、チェンバレン内閣の軍事に疎いホー・ペリシャ陸軍大臣の非公式アドバイザーも務めていたと言われます。

 話を戻して、1920年代から1933年2月までの間、戦車兵科は低予算に苦しみました。1932年、満州事変を巡る緊迫で破られるまで、イギリスの軍備は「10年間は大きな脅威が生じないことを想定して」行うものとされ、軍縮が進みました。その一方で、イギリスは広大な連邦を警備する必要があり、機関銃しか装備していない軽戦車にも一定の需要がありました。この間、ドクトリン上で誰かから結論を押し付けられることはありませんでしたが、戦車兵科は自ら、「戦車部隊は単独で機動的に行動するものだ」という考えに閉じこもりました。

 しかし1933年にはヒトラー政権が登場し、当時のイギリス政府はこの新政権が3年から5年で深刻な脅威になると評価しました。この軍備拡大期に、イギリスは新たな参謀総長にモントゴメリー=マシングバード大将(のち元帥)を選びました。彼は砲兵でしたが、Wikipediaによれば終生馬術が大好きでした。この参謀総長の下で、騎兵に軽戦車を与えて実質的に戦車部隊に改組する計画が推進されたのです。普通なら戦車兵科独立の勝鬨であるはずのmobile division創設(1937年、後に1st armored divisionとなる)が、兵科間闘争の幕開けとなりました。この師団には騎兵連隊(軽戦車装備)6個連隊と戦車2個連隊が属することになり、このために6個騎兵連隊を戦車装備に改編することが正当化されたのです。

 もちろんモントゴメリー=マシングバードというキャラクターを抜きにしても、連隊旗に様々な古戦場が縫い取られたイギリスの各種連隊を廃止ないし新編することは極めて厄介なことであり、アメリカでも騎兵の近代化から戦車部隊が再興したことを思えば悪いことばかりではないはずです。しかし戦車兵科が諸兵科の協力抜きでの機動接近戦をイメージしていたため、まさにそうした戦いを理想とする騎兵科とのせめぎあいが起きてしまい、なお悪いことに、そうした戦い方への反省が遅れてしまいました。

 第1次大戦以来、イギリスは中戦車と軽戦車を保持してきました。前者のなかにも高速なMk.Iがあったことはすでに触れましたが、これは装甲を犠牲にしてのことでした。1936年にイギリス陸軍高官たちがソビエトの演習を視察し、自分たちが却下したヴィッカース6トン戦車がT-26として疾駆している様子も目に入ったはずですが、特に彼らの目を引いたのは速度に優れるクリスティー戦車でした。イギリス戦車兵科の考えている機動戦に、ちゃんとした砲を備えた戦車が入ってくれば、イギリスの軽戦車は蹴散らされてしまいます。しかし予算の範囲内ではすべてに優れた戦車は作れません。そこで速度を我慢した歩兵戦車と、装甲を我慢した巡航戦車が作られることになりました。

 コンセプトはそれほど間違っているわけではありません。ただ先に触れたように、III号/IV号戦車が300馬力エンジンを使っているとき、イギリスが大戦までに用意できた戦車は、200馬力以下のエンジンを使っていました。エンジン出力の不足から生じるシワは、装甲か武装、でなければ乗員数に寄ります。イギリス戦車はしばしば3人ないし4人で動かさねばならず、射撃中には通信できないなどの総合的な問題を露呈しました。

 機動力に頼り、遠距離の射撃戦を想定していなかったことが、2ポンド砲に榴弾が用意されていないという(大戦中期までの)問題のひとつの原因です。ひとつの……というのは、イギリスの技術者たちは榴弾を車内に持つと誘爆の危険が増すことを重視していて、アメリカが北アフリカに75ミリ砲のグラント戦車を持ち込んできたとき、それを盛んに懸念したのです。これに対しモントゴメリーは「75ミリ砲は我々が望むもののすべてである」と本国に書き送り、前線兵士たちの支持を集約しました。もちろん、自動車牽引の対戦車砲か両用砲が戦車に追随し、不利と見たら戦車部隊が対戦車砲陣地まで戻るように諸兵科連合を活用すれば、それでも弱点はカバーできるのです。ドイツがそうしていたように。この点でも大戦が始まり、モントゴメリーが主唱して諸兵科協力訓練を課すまで、イギリスはドイツが頼った諸兵科連合に背を向けていました。

 クルセイダー戦車の次に来るカヴェナンター巡航戦車が性能を欲張り過ぎ、高出力なエンジンの熱が車内にこもる欠陥戦車となって巨大な無駄を出したことは不幸な出来事でした。ただドイツだって欠陥戦車はいろいろ試作していますし、フランス失陥直後、本土を守れる戦車が250両しかないタイミングでは、欠陥戦車を1700両生産してしまうこともやむを得ないでしょう。

 1942年以降のイギリス戦車について、この文脈で語ることはあまり意味がないでしょう。イギリスはあまりに多くのアメリカ戦車を使ったからです。むしろ付け加えるべきは、戦車の数的質的劣位が(M4シャーマンもドイツ戦車と単独で優位に立てるものでなかったのはご存じのとおり)まずまず解消されたとき、イギリスがどうしたかです。

 イギリスは機甲師団にふたつある旅団司令部(戦車旅団と歩兵旅団)を戦闘団司令部にして諸兵科連合チームを運用するようになりましたし、アメリカも歩兵師団の連隊本部や機甲師団のCCA/CCB/CCRを使って同様のことを始めます。対戦車砲も(むしろアメリカは自動車牽引式対戦車砲部隊を充実させすぎたことで、推進者のマクネア中将が批判されているくらいです)このチームに加えられ、戦車の突破に強い組織になっていきます。1944年のグッドウッド作戦がイギリスに与えた大損害が象徴するように、お互いに戦車部隊による集中突破が難しい、新たなタイプの膠着の香りが漂ったわけです。もちろんそれは連合軍の空の優位で吹き払われてしまったわけですが。

万国の騎兵よ、剣を捨てて銃を取れ(2018年11月追加)

 Howard[1985]は第1次世界大戦前の「未来の戦争はこうなる」というコンセプトがどうであったかを論じたものです。大きなテーマを短く扱っているため、この論文全体のテーマについては「この紙数じゃ無理」だと思うので論評しません。ここで問題になるのは「未来の騎兵」についてです。

 第2次ボーア戦争の前半では、最新式の銃を持ち散兵戦闘を仕掛けるボーア軍に、旧式銃交じりで斉射に重きを置くイギリス軍が苦杯をなめました。後半は数的劣勢がはっきりしたボーア軍がゲリラと化し、その制圧にイギリス軍がやっと成功して停戦に持ち込みました。この後半で、イギリス軍が正面射撃でボーア軍部隊を引き付け、騎兵が回り込んで射撃し壊滅させた先例があったそうです。

 つまり「抜剣突撃しない騎兵の用法」がクローズアップされたわけです。これに対して、「チャージは騎兵の命どす。捨てるわけにはいきまへん」といった抵抗があり、ついに第1次大戦まで、イギリスの騎兵操典ですら小銃を騎兵が持つ意義は馬のスピード、突撃の魅力、白い鉄の恐怖を「置き換えるものではない」といった表現が残ってしまっていました。

 つまり竜騎兵(小銃騎兵)を「息をする軽戦車」として運用するコンセプトは1900年前後からもうあったわけです。そしてイギリスではフラーの後を継いで戦車兵総監部の論客となったホバートが爆撃機の発展を見て悲観的になり、より歩兵に近いところで作戦する歩兵戦車コンセプトの採用に傾きました。逆に騎兵の近代化を進める中で創設された機械化総監部は、巡航戦車と装甲車に騎兵の魂を託しました。

 それはいいんですが、後者のコンセプトでは、騎兵が銃を持つと言うだけで飛躍であるわけです。騎兵が大砲を持っていなくても気にしてもらえないわけです。なまじ前史を持っていたことが、戦車砲(というか、砲への榴弾供給)がイギリスで遅れた一因になったかもしれません。

ポーランド戦は電撃戦ではなかった?

 先に述べたように、電撃戦(blitzkrieg)という言葉は戦前からあり、最初に使ったのは軍人ではありません。つまり軍事問題について公式な立場のある機関が使った言葉ではないので、言葉の定義がはっきりしません。

 ポーランド戦は9月1日に始まり、9月18日に最高司令官が政府とともにルーマニアに脱出し、降伏はしませんでした。従って何日に終わったのか断じることが難しいのですが、最も長く取ればクレーベルク大佐の部隊が降伏した10月5日、短く取ればワルシャワが陥落した9月28日ということになるでしょう。

 当時のドイツ西部国境からワルシャワまでは500~600kmありますが、東プロイセンから南へたどればずっと短くて済みます。南のスロバキアから侵攻するルートも使われ、時速4kmという歩兵の進軍速度でも、最高司令官が脱出するまでの18日間で端まで行き着いてしまいます。実際、すでにドイツ軍が達した地域や攻撃していた都市を、9月17日に東から国境を越えたソビエトに明け渡した例があちこちで出ました。

「ポーランド戦は電撃戦ではない」という主張は、大きく分けて次のような事実を強調したものだと思います。ひとつは、ドイツが戦車部隊を狭い正面に集中させ、後方へ突っ込んでいく戦法を取らなかったこと。もうひとつは、歩兵と戦車部隊の速度差が決定的な役割を果たさなかったこと。ドイツの砲兵が火力でポーランド軍を圧倒した(から在来型の戦争である)ことをCooper(よく見るとZaloga&Madejではありません)が指摘していると英語版Wikipedia(ポーランド侵攻)にちらっと書いてありますが、それはポーランド戦が電撃戦でないことの裏返しと考えられます。

 ポーランド戦がフランス電撃戦とは異なる戦争だったことは、フリーザーの指摘以前から軍人や軍事マニアには一定の理解があったものと思います。もちろん言葉の概念規定に縛られるのは研究者くらいのものですから、「ポーランド電撃戦のほうが派手に聞こえますからポーランド戦役とか初期最貧戦線とかいうタイトルはやめて下さい」くらいのことを言う編集者がいても全然おかしくはありませんし、それで売れるのであれば仕方ないと思います。

下を見ればきりがない

 フリーザーが、ポーランド戦からフランス戦までにドイツ軍が招集した兵士(と士官)を必死に訓練した話を書いているので、ちょっと補足説明をしようと思います。

 ドイツ語Wikipediaの国防軍歩兵師団の編制Lexikon-der-Wehrmachtの編制解説も参考にしながら書いていきます。

 大戦勃発直前にドイツが用意した歩兵師団で最も優良なグループは「第1波(1.Welle)」です。これは次のような内訳です。1935年のドイツ再軍備宣言を受け、1935~36年に(そのうち22個は、秘密裏に1934年から編成を開始)編成された、日本陸軍なら常設師団に当たるものが第1から第36まで36個師団。オーストリア陸軍兵士を中心にした第44・第45歩兵師団。ズデーテンラントの兵員で同様に編成した第46歩兵師団。そして大戦直前、オーデル川周辺に配置されていた国境歩兵連隊群を基幹として編成した第50歩兵師団。以上40個師団です。第50歩兵師団は装備もあまり良いとは言えず、師団としての編成も大戦直前で、第2波扱いしている資料もあります。

 第2波師団は18個で、その兵員の80%以上は予備役(Reservisten I)です。部隊として発足したのが大戦直前ですから慣熟の必要は大いにありますが、兵質は優秀です。

 第3波(22個師団)は新編、第4波(14個師団)は徴兵制がなかった世代(Weißen Jahrgänge)に短期訓練をする部隊(Ergänzungseinheiten)をかき集めて作ったもので、いずれも第1次大戦での兵役経験者や短期訓練を受けただけの世代が大半でした。

 ところがこれでも長くなった戦線を維持するには足らず、フリーザーも書いているように、フランス戦直前には一度も徴兵されないまま年を取ってしまった「空白の世代」を野戦軍に編入せざるを得なくなりました。これらの部隊を比較的脅威の少ない東部国境などに配して、中堅師団は優良師団に近づくよう頑張ったわけです。

 とくに第9波の13個師団(ドイツ語版Wikipedia「Aufstellungswelle」には第554~第557歩兵師団が欠けているので9個師団しか一覧にありません)は、フランス戦が終わると早速解体されました。日本陸軍が兵役期間の終わった古兵を「現地除隊即日再召集」という残酷なロジックで独立混成旅団などに放り込んだように、彼らは連隊単位で後方の二線級部隊として保安師団司令部などの指揮を受け、後方警備や捕虜収容所警備と言った任につきました。

 こうした二線級師団が次々に作られたことを、フリーザーはヒトラーとドイツが電撃戦の準備をしておらず、むしろ停滞的な塹壕戦を予期していたことの傍証に数えます(76頁)。しかしポーランド戦の第3波・第4波師団がすでにそういう扱いであったように、二次的な重要性しか持たない戦線を二線級師団で埋めることによって優良師団を浮かせ、決定的な戦線にエースを投入するなら、電撃戦を仕掛けることと論理的な整合性はあります。ノルマンディー海岸の700番台の貼り付け師団が重榴弾砲の第4大隊を欠いているのは、それが防御に適しているからではなく、足りないからです。 

優良師団と、1940年春編制の師団それぞれの配置表

 フリーザーの挙げる「ドイツは電撃戦による短期決戦が成功すると予期しておらず、長期戦の準備をしていた」ことの傍証には、欧米の研究者が以前から知っているものが相当数あります。例えば1940年のドイツの生産態勢が軍需品中心になかなか切り替わらなかったことは、航空機生産・自動車生産などいろいろな切り口で、それぞれの研究者が断片的に言及しています。むしろそれは、予期に反して対英仏戦争が始まってしまったために、国民に対して総力戦体制への移行を言い出しづらくなったことが一因だと、以前から解釈されてきたように思います。フリーザーが最初に言い出したわけではないにせよ、ドイツに電撃戦による短期決戦に向けた体系的な準備がなかったことは、豊かな傍証があります。

 ドイツではそうした解釈から目を背ける、必ずしもマニア的な軍事知識を持たない歴史研究者の言動があったのかもしれません。それはなるべく多くのことをヒトラーのせいにしようとする「清廉潔白な国防軍」の亜流とみなすべきかもしれません。

 じゃあドイツは西部戦線の長期化を予期していたのか? となると、私の意見はイエスでもあり、ノーでもあります。開戦とともに、長期化の可能性に気付いてあわてたというのが私の見立てです。だって多くのドイツ要人は、英仏と実際に戦端を開くことは予想していなかったのですから。ただひとり、NSDAP政権にとっては非常にまずいことに、リッベントロップ外務大臣がむしろドイツの軍事力を過信して、戦争になっても大丈夫という見通しを持っていた節があります。

 それはまあ置いておいて、軍事マニアには軍事マニアなりの応じ方があります。ドイツとイギリスがそれぞれ、要塞地帯での戦闘を想定して、似たようなものの開発に手を付けたことを指摘しておきましょう。

 ドイツ側のそれは、I号戦車F型。1939年12月の契約で、マジノ線をさすがに機銃2丁で打ち破れるとも思いませんが、まあ弾幕の濃い地帯での歩兵支援用に急きょ用意されたものです。対するイギリスは、開戦前(1937~1938年)からマジノ線とジークフリート線のはざまで戦うことを想定し、それに適した戦車を用意しました。その条件は、重装甲はもちろんですが、砲弾孔だらけになった戦場を往来できる、不整地走行能力に優れた戦車でした。こうしてA20歩兵戦車の試作車がようやく出来上がってきたころ、ダンケルクの撤退があり、想定される戦場がなくなってしまいました。若干の変更を加えて出来上がってきたA22チャーチル歩兵戦車は、不整地に強く重装甲というA20の特徴を色濃く残しています。

「少なくとも陸上兵力において、ドイツは英仏連合軍に対して劣勢であったけれども、英仏部隊が散らばっているうえに動きが鈍く、各個撃破されてしまった」おそらくこの説明は、多くの軍事マニアが持っているイメージだと思います。今日の我々は、英仏の戦争マシーンにいろいろな不具合があったことを知っていますが、ドイツには自分の現実と相手のイメージが見えていますから、もっと戦力比を不利に感じていたのではないでしょうか。

「しかし戦端が開かれてしまった以上、攻撃せねばならない。さあ計画を案出せよ」こうヒトラーは言います。将軍たちは反駁します。「英仏を打ち破るなど正気か」気乗りのしない参謀本部は第1次大戦ではこうでしたと言わんばかりの案を出します。口論が募る中で、マンシュタインの提案が上がってきます。時に1939年10月。

ふたりのライバル、そして却下と彫琢

 ポックの父親は普仏戦争で師団長を務めた少将で、母方の伯父は第1次大戦中に参謀総長を務めたファルケンハインでした。ポック自身も第1次大戦で大隊長として勇戦し、プール・ル・メリット勲章をもらっています。1916年1月から2月にかけて、後に連合軍が攻勢をかけるソンムの戦いの舞台となる地域で、フリーゼという小村をドイツ軍が奪取したのですが、どうやらその戦いでの手柄です。彼の属したプロイセン近衛歩兵第3連隊は、ヒンデンブルクやマンシュタインが属した連隊です。

 ルントシュテットの家系も古い軍人一家ですが、個人装具の高価な騎兵になれないほど資産がなく、ヘッセン(カッセル)の第83歩兵連隊に所属しました。ボックより5才年長です。大戦末期にプール・ル・メリット勲章に推薦されましたが、もらえませんでした。

 1932年の秋季大演習は、ルントシュテットの1個歩兵師団がボックの2個騎兵師団による攻撃を川で支えるという想定でした。当時のドイツ陸軍は歩兵7個師団、騎兵3個師団に制限されているのですから本当に大演習です。ポックは渡河に成功しましたが、ルントシュテットの予備が到着してポックの橋頭堡を脅かす状況で演習は終了しました。ルントシュテットの評価は上がったと言いますから、ポックには名を成さしめた思いが残ったかもしれません。

 このように、ポックとルントシュテットはことさら衝突する仲ではないとしても、同世代のエースとしてくらべられやすい間柄であったと言っていいでしょう。ポックから見れば、抜けそうで抜けない相手。ルントシュテットは1938年に退役しましたが大戦で呼び戻され、ポーランド戦ではワルシャワ方面を含む南半分を任されました。そして西部戦役、当然主役であるはずの最右翼を担うB軍集団のボックから、また主役の座が奪われようとしています。

 フリーザーも書いているように、ブロンベルクとフリッチュの事件に関連してベック参謀総長も辞職する羽目になり、次期参謀総長への最短距離にいたマンシュタインも巻き添えを食いました。その空白に入り込んだのがハルダーです。このハルダーとマンシュタインの微妙な距離関係がフランス電撃戦の経緯を理解するひとつの鍵になるのですが、土壇場で起きたことのいくつかを理解するには、ポックとルントシュテットの立ち位置も頭に入れておいた方がいいでしょう。フリーザーは次のように書いています(上巻141頁)。

各軍集団の総司令官にとって装甲兵力はみずからの「威信」を誇示するための「看板」のようなもので、
他へまわされないよう、できるだけ手元にひきとめておこうと彼らは躍起になっていた。

 最後に残った(まあ第4装甲師団は歩兵軍団に交じってB軍集団で戦いますが)ヘップナー装甲軍団をB軍集団から引き抜いたとき、ポックとルントシュテットのあいだに微妙な火花が散って、ハルダーがそれをかぶるのです。

 フリーザーはマンシュタインが「第2の鎌」、つまり南へマジノ線全体の背後を襲うことを計画に含めていたことを示唆しています。もちろんそんな長い包囲環を南北同時に維持する戦力はドイツにはないので、これは英仏海峡に伸びた装甲軍団の腕を攻撃させないための陽動です。たしかにマンシュタインの最終案ともいうべき、1940年2月17日にヒトラーにプレゼンした内容のメモが『失われた勝利』にありますが、突破部隊の側面を守る第12軍は「南西方向」に攻勢を取り、フランス軍が反撃する意図を絶つこととなっています。

 さて、Ulrich Liss少将をご紹介する時が来ました。砲兵隊の戦時志願兵として軍歴を始め、士官養成課程にやってもらって砲兵士官となり、戦前から1943年まで陸軍参謀本部の情報部門であるFremde Heere Westに勤めました。その後歩兵連隊長から師団長代理になったところで重傷。回復して師団長代理になってまた重傷。ついに正式な師団長の辞令がもらえず、そのくせソビエトの捕虜を10年食らい込んだ人です。このひとの回想録に、1939年12月27日にマンシュタイン案を検討する参謀本部の図上演習でフランス側を受け持ったときのことが載っています(106~107頁)。

 作戦計画上、新しい解決策が存在することが徐々に浸透した。短いクリスマス休暇の後、私は赤軍[ドイツ軍の演習で、慣例的に敵方は赤]の指揮官として図上演習に参加した。参謀本部作戦課長のシュツルプナーゲル将軍が統裁官だった。「鎌刈り」がテストされたのだ。

 敵について我々は3種類の想定をしていた。

1.スヘルデ川まで短距離の進出はありうるとしても、フランス~ベルギー国境のもといた位置にとどまる。この可能性は低い。ドイツにベルギーをひと刺しにさせ、イギリスに対する航空基地として自由にさせる。もし彼らが国境にとどまれば、そうなってしまう。

2.ディール川まで進出し、アントワープ~ルーベン~ナミュールの線で守り、ナミュールからはムーズ川に拠る。この選択はベルギーの大部分をドイツに渡す。しかし[前大戦で]おなじみの組織的な行動で我々に対し戦線を形成し、立てこもることができるので、こうするかもしれない。この選択は1940年に実際に取られたものである。

3.「ベルギーの張り出し」に入り込み、ベルギーを助ける。ナミュールとリェージュの間ではムーズ川、さらにアルバート運河に沿ってアントワープまでを防衛線とする。ベルギー軍の平時の位置まで進出するということである。ベルギー領はこれによってほとんど失われず、アルデンヌでの突破に対して側面攻撃できる橋頭堡を確保することにもなる。

 最後の策のためには、連合軍は歩兵師団の大群の中から、自動車化師団や半自動車化師団を抽出し、アルベルト運河へ突進させてくると思われた。我々はフランス大本営が、自動車化師団や装甲師団が投じられたポーランド戦での作戦から教訓を得るものと信じていた。

 図上演習のすぐ後、我々にフランス第7軍が「ベルギー介入軍」と別称をつけられたという通信が入ってきて、この見方は強まった。

 図上演習は納得のゆく明快な統裁で午前中に進み、上記3つの想定のどれでも、アルデンヌを突破するドイツの攻撃は有望であり、拘束のない場所の突破により敵の兵団全体を釣りあげることができると確認された。白状すると私は、一緒に赤軍を担当したシランダー少佐とレーネ大尉とともに、ムーズ川突破の確信をもって作戦課の建物を出た。今までは私もレーネも見込みに懐疑的で、熱情的なシランダーは私たちほどではなかったが、このときからそんな考えは消えた。しかし同時に私たちが確信していたのは、ヴェルダン方面から北へ向けてフランス軍が我々の側面をついてくることである。もしフランス軍が最初から十分な予備を持っていないとしても、それは私たちにはわからないし、どっちみちマジノ線の内側には十分な兵力があって良い鉄道にも不自由していない。それが間に合うように現れるか、それだけが問題なのだ。

 ハルダーの日記でも、この演習について翌日シュツルプナーゲルから説明を受け、そのまた翌日にマンシュタインにも会っていることが記されています。このころにはマンシュタインの計画は行けそうだという分析結果が出ているのに、まだハルダーは渋っていたわけです。

 もちろん、フリーザーも触れているようにドイツ軍はこのとき必死で将兵の訓練と武器・弾薬の増産をしています。1940年になって編成された師団は東部国境とC軍集団に注ぎ込まれ、ドイツの優良師団のほぼ全部がフランス戦に動員されました。その準備が終わるまで、ハルダーはヒトラーにゴーサインを出させたくなかった……というだけのことかもしれませんね。OKH予備の軍団長としてA軍集団参謀長を外されたマンシュタインがヒトラーに直接プレゼンをして感銘を与えたのが2月17日。ハルダーがマンシュタイン案を全面的に取り入れたA軍集団主攻の作戦案をヒトラーに持って行ったのは2月18日。ヒトラーがハルダーを動かすほどの時間はありません。フリーザーが言うように、もう少し前からの経緯があるはずです。

 ハルダーの日記によるとメヘレン事件への対応が総統会議で話し合われたのは1月20日です。直ちに新しい方針はもちろん出せません。1月22日にマンシュタインを転出させる検討が始まります。1月30日に出された「黄の場合」の最新版についてはブラウヒッチュとハルダーの協議の記述のみがあります。書類だけヒトラーに出したと思われます。

 2月7日にはハルダー、グデーリアン、ルントシュテットが参加した図上演習があり、ミューズ川を攻勢開始から4日後に2個軍団で渡河すべきだというグデーリアンと、もっと多くの兵力で8日後に渡るべきだとするA軍集団司令部(ルントシュテットら)の意見が一致しません。しかし明らかにマンシュタインプランを検討していますね。2月14日にまた図上演習があり、今度は第12軍司令部。グデーリアンの第19軍団によるセダン攻撃が検討され、「装甲師団で正面攻撃はないわ」「歩兵師団を追いつかせる方法はないの?」「北で頑張ると南の側面が薄くなるし、南で頑張るとB軍集団との切れ目ができるね」といったことが焦点になったようです。史実では結局正面攻撃するんですけど。

 フランスに電撃戦は通用するか否か……ではなくて、少しずつフランスの実際の兵力配置についての情報が入ってくるのを待って、ドイツの兵力が充実するのも待って、これなら行けると踏んだわけですね。

 フランス侵攻が始まった時点で、OKHが予備としてキープしていた歩兵師団は39個あります。これに対し、開戦から1939年末までに編成された師団は25個、1940年2月~3月に23個。後から追加された師団がこの予備を作り出し、ノルウェーやデンマークで増えた負担を引き受けて、ちょうどチャラになる勘定です。まあ逆に言えば、1940年5月というのは攻撃開始日として、ほとんど前倒しの余地がないことになります。

連合軍側の逸機と過誤

 メヘレン事件で手に入った、旧態依然たるドイツ軍の作戦計画は、連合軍の予想通りであったために、これに対して連合軍の右翼を強化する意見を強くしました。連合軍の動きはドイツに察知されており、これがハルダーたち反対派の意見を変えていったのだとフリーザーは言います。もともとハルダーたちが反対であったのは、急進する装甲部隊の側面を衝かれることが主な理由だったわけですから、その心配が減れば評価も変わってくるわけです。作戦計画なんか拾わなきゃよかったということですね。

 また、アルデンヌの穴をふさぐべきフランスの戦略予備は払底していたと言われますが、じつはフランス第7軍がそれを務めるはずであったのに、ガムランが直前に作戦を変えて、オランダ陸軍と連携する可能性のためにオランダ領ブレダを目指して急進させてしまい、むなしく包囲の中に入ってしまったのだとフリーザーは言います。上に書いたように、フランス第7軍はどうもベルギーまで進出するらしいぞとドイツは1939年末に察知してしまったのですから、どうにもなりませんね。

そのとき歴史は停止した

 ポック元帥はロンメル元帥と似たところはほとんどないのですが、ひとつだけ似ているのは、自動車で走っているところを機銃掃射されたことです。ポックはロンメルほど幸運ではなく、致命傷を負ってしまいました。しかも終戦前日に。ただそのことが、彼の日記の価値を計り知れないものにしています。保身のために削ったり足したりする余地がなかったからです。英語版もGerbet[1996]として手に入ります。

 1939年10月には、ヒトラーだけが攻撃計画を用意しろと言っていて、将軍たちはみんな困ったものだという反応をしています。ボック、クルーゲ、ライヘナウが呼ばれて、10月25日に総統に会うことが決まると、23日にシュツルプナーゲル参謀本部作戦課長がポックのところへ下相談にやってくるといった具合です。

 25日の会議でヒトラーが言ったことは、パーツとしては後年のフランス戦を構成したものによく似ていました。装甲部隊による急進。ベルギーに英仏軍が入る前にドイツが入る必要性。時間を置くほど英仏は強力になること[フリーザーが指摘するように、実際にはこの時期に限ってみれば、時間を有効に使ったのはドイツでした]。ポックは、悪天候が陸軍の前進と空軍の援護を妨げるので、この季節にそれはできないと言いました。ヒトラーは、ムーズ川の南を突破すべきだと最初から思っていたと言い出し、何人かの将軍は明らかにそれが初耳だという反応をしました。ポックは、そこに通じる道路は参謀本部の作戦計画でもみっしり混雑するようになっていると指摘しました。

 そこからしばらく、フランス戦に関係する記述は、「天候のため」作戦開始がまた延びたという話ばかりです。たいてい1週間くらい先の天候ですが。11月18日のハルダーとの協議では、予備が少ないので攻撃に深さが足りないと指摘しています。そしてヒトラーが南(ルントシュテットのA軍集団)での突破にまだこだわっていると気にしています。11月23日、総統会議がやや唐突に召集されます。もっぱら議題は「不屈の意志」だの「進取」だので、ポックは陸軍将帥全般へのヒトラーの不信を感じ取っています。会議に先立ってブラウヒッチュとヒトラーが衝突し、作戦の話は持ち出されすらしなかったようです。12月13日、参謀本部あてに攻撃の焦点をB軍集団から外すのは不適切だと意見書を出しますが、ハルダーの日記では全く言及がありません。もっとも、マンシュタインが12月18日にA軍集団指令草案として送った作戦提案も、19日の項に「A軍集団が馬鹿げた提案を持ってきた」と書いてあるだけです。

 ハルダーの12月14日付の日記では、フロム予備軍司令官との会談で、訓練期間短縮も含めて1月末に42万人、3月末に20万人、4月末に15万人が訓練を終わることが議題になり、合計77万人だが100万人は欲しいねという話になっています。これが各師団の補充や年長者の除隊分、さらに第8波、第9波師団の中身というわけです。

 ポックは12月22日にはベルギーがアルデンヌでの道路を通りづらくする措置を進めていると上申し、ハルダーに電話もかけてB軍集団を攻撃の主役にする言質を取ろうとしますが、成功しません。1月6日にハルダーに会いますが、やはり主攻をA軍集団にするともB軍集団にするともはっきり言明がもらえません。このときにはすでに、成功した12月27日の図上演習の様子をハルダーは聞いているのです。1月8日にハルダーはまた図上演習をやります。まさにそのアルデンヌの交通事情を緩和するため、鉄道輸送の可能性や道路統制について検討したようです。1月9日にはまた総統会議で、1月17日を期してベルギーを攻撃する……などという話をするのですが、これが1月10日のメヘレン事件で吹っ飛ぶのですね。

 さて、下地の説明は終わりました。ここで時間をすっ飛ばして、ダンケルク直前での停止命令が出る寸前に目を転じましょう。

 5月17日正午ごろの総統とハルダー、ブラウヒッチュの会談で、「南方(側面)からの連合軍の反撃」を気にするヒトラーと、包囲網の南側には有力な連合国陸軍部隊がいないと予測するハルダーの意見齟齬が初めて表面化します。その日の日記の最後で、ハルダーは「やや不愉快な日。総統はひどく神経質だ」と記します。フリーザーはこのヒトラーの根拠なき「側背パニック」を後の停止命令の背景としてあげます。

 18日、ハルダーは南西に一刻も早く進出すべきとしますがヒトラーが南方を気にしていると繰り返します。これだけを読むと、ハルダーもまたダンケルクポケットの掃討を第一義に考えていないように見えます。この日、ヘップナーの第16自動車化軍団とふたつの装甲師団がB軍集団からA軍集団に移され、ポックは憤激します。

 16日に開始された連合軍のベルギーからの退却を、18日にハルダーは確信します。

 20日午後、さらに南西に進みたいというハルダーの提案をヒトラーが認めます。

 21日午後にアラスの戦い、つまりロンメルの奮闘がありましたが、午前のうちにロンメルたちが属する第4軍の北側で憂慮すべき動きがあるとの報告がハルダーまで上がっていました。ハルダーはこの一日を補給の算段だのイタリア参戦の動きに対応したりして費やし、真夜中過ぎになってB軍集団司令官のポックから「たいしたことはなかった」と電話を受けます。

 ポックの日記によると、この電話の主な用事はそれではなくて、「A軍集団北端の第4軍が西へ大きく前進したので、B軍集団南端の第6軍も西へ続け」という命令がその日ハルダーから届いたことでした。南で戦端を開いている第6軍に突然西へ行けと言われても、残兵に後背を狙われるではないかとポックは抗議したのです。

 23日朝の情勢判断で、ドイツ軍の包囲環が薄いことへの憂慮をハルダーは記します。この時点での装甲部隊の大半がクライストの指揮下にありますが、23日夕方になってクライストも連絡士官を通じて、戦車の損害が半数に達したこと、アラス方面での包囲の薄さをあげ、このままでは攻勢にかかれないという判断を伝えてきます。

 23日の夜に関するハルダー日記とポック日記はぴったり一致しませんが、ハルダー日記のほうに不正確な英語訳があったと考えると、ブラウヒッチュとハルダーは第4軍の帰属をめぐってもめたようです。第4軍はもともとB軍集団であったのを、A軍集団の戦線をカバーするためにもぎ取られ、ポックは他の予備が持って行かれたことも含めて、B軍集団から予備をもぎ取ったうえ副次的な役目を押し付けると怒っていたのです。この第4軍引き渡しには、何らかの表現で、包囲戦全体の指揮権をポックに与えるという意味の文言があって、ハルダーはこれを無用のことと(ブラウヒッチュがルントシュテットとポックの上にいるということでいいではないかと)反対していました。結局ブラウヒッチュは渋るハルダーの副署なしで第4軍をB軍集団に戻す命令を出しますが、最終的に取り消しになります。ハルダーは名指しは避けますが、自分の立場を戦局より大事に考えるポックの態度を怒っていたようです。なお第4軍にはホトの第15軍団(第5装甲師団など)が含まれており、この戦車戦力を持って行かれたこともポックの怒りの一部であったようです。

 ルントシュテットの伝記著者が引用する陸軍の総統府武官エンゲル少佐の日記によると、23日のうちにゲーリングからヒトラーに電話があり、「空軍は海岸の陸上部隊を撃滅できる」という安請け合いがあってヒトラーが興奮し、ヨードルは「あの野郎(bloke)また安請け合いをしやがって」と言いました。

 24日には、モーブージュの古い要塞群は掃討され、歩兵師団が包囲網に戻ってきます。その一方、クライストは連合軍が航空優勢を取り戻し始めたと報告してきます。

 ところがこの日の午後3時ごろ、飛行機と車を乗りついで総統がルントシュテットの司令部にやってきます。どうやらOKHに事前連絡はなかったようです。たぶん空軍に掃討をやらせて良いか現場を見に来たのでしよう。ここでルントシュテットは、突然装甲部隊を含む第4軍を取り上げられたことを状況説明の中で直訴し、ヒトラーらは大変に驚きます。

 そして-ここはけっこう大切ですが-ルントシュテットの伝記著者によると、装備修理のため装甲部隊を1日休めたい、と言ったのはルントシュテットで、ヒトラーはこれを快諾しました。そして、今後のフランス掃討作戦のためにも戦車は必要だと言いました。さらに、あまり包囲網を縮めると空軍の作戦の妨げになるだろうと言いました。元ネタはルントシュテットの参謀長だったブルーメントリットの手紙のようです。

 ヒトラーの持ってきた「空軍」というキーワードと、ルントシュテットが持ち出した「停止」というキーワードに、ポックの横車とブラウヒッチュの優柔不断、そしてルントシュテットのシニカルな反発が融合して、こんな結論が出てしまったのです。

 ヒトラーはブラウヒッチュとの会談を求めて去っていきます。

 そしてブラウヒッチュが総統のところから戻ってきて、20時にハルダーに装甲部隊の停止を命じ、掃討は空軍が行うと告げます。ヒトラーの言い分によれば、装甲部隊は今やフランスでの戦いのために温存すべきであり、その政治的意図を隠すため、運河地帯は戦車部隊の移動に適さないという言い訳が流布されるべきであるといいます。

 ハルダーの予定ではクライスト集団を含むA軍集団がまず攻撃して連合軍を退却させ、B軍集団がとどめを刺すことになっていましたが、戦車部隊を持たないB軍集団が押すしかなくなりました。B軍集団が押したあとA軍集団が進むのですが、このときの予備のため(装甲師団をその役目にも使いたくないので)第4軍から3個歩兵師団がA軍集団予備に持って行かれてしまったのです。ポックはすべてが終わった後ですべてを聞かされましたが、どうすることもできませんでした。

 ルントシュテットは(戦後のインタビューで、装甲師団の修理部隊到着が遅れていたことも指摘しています)再編の時間が欲しかっただけで、前進したくないわけではありませんでしたし、グデーリアンなどには第4軍の転属命令そのものが伝えられておらず、戦場の霧のせいにして戦闘に巻き込んでしまい、転属をうやむやにしてしまえというルントシュテットの意図があったかもしれません。それはヒトラーという器に放り込まれると、ゲーリングがかけておいた魔法のスパイスのせいで、無期限の停止命令に化けてしまったのです。ヒトラーも悪いが、将軍たちも土壇場で微妙なケンカをしたものだよねというお話でした。そして実際、ヒトラーが「イギリスは和平を求めてくる」と信じていたとすれば、フランスの残りを掃討するために装甲部隊を温存するという考えはそれほどおかしくありません。

電撃戦は神話であったか

 結局のところ、フリーザーが自著の冒頭に取り上げた「電撃戦プログラム論」をどの程度主な論敵とみなしていたのか、あまりはっきりしません。フリーザー自身の論証のち密さに比べて、「電撃戦プログラム論」に関する説明がひどく短いからです。まあ学術的著作では、ひとつの説明の独自性を主張するための対立仮説がないと論旨がうまく立たないので、あまり突っ込んでも仕方ないところでしょうか。

 ドクトリン部分においては、彼の論じたことは相当程度、すでに欧米の研究者が論じてきたことです。プロイセン以来、第1次大戦以来のドイツ空軍の伝統。1920年代以降の戦車研究と、米英仏に比べたその相対的成功。空軍創設への陸軍の関与と、航空撃滅戦を中心とする独立空軍の利点の融合。

 フリーザーの著書の華は、なんといってもフランス戦そのものの立体的な叙述です。それによって「電撃戦」などというものはそこにはなく、「フランス電撃戦」があったのだということに納得させられます。フランスの計画、準備、そして作戦判断が大きく敗北に関わっており、大なり小なりその内情を見越したドイツの計画と独断専行が加わり、ヒトラーたちの即興劇とも言うべき停止命令によってその幕を閉じます。

 ひとまずこのシリーズを閉じますが、何らかの形でソビエトのディープバトル・ドクトリンについてはこのサイトで取り上げたいと考えています。

 付記 防衛研究所『戦史研究年報』 第4号(2001年3月)において、葛原和三氏の「日本陸軍の第一次世界大戦史研究-戦史研究の用兵思想への反映について-」が日本陸軍士官たちによる第1次大戦研究と、その後それらの研究が反映されたりされなかったりした経緯を取り上げています。火力にばかり注意を向けることは精神論軽視になるという批判は、戦間期ドイツにもなかったわけではありません。

参照文献

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  • Corum, James S.[1997]The Luftwaffe: Creating the Operational Air War 1918-1940,Univ. Press of Kansas
  • Gerbet, Klaus(ed.)[1996]Fedor von Bock: The War Diary 1939-1945,Schiffer
  • Guderian H.[1937]Achtung - Panzer!,Cassell(現在手に入る英語版の版元)
  • Haveck,Mary R.[2003]Storm of Steel: The Development of Armor Doctrine in Germany and the Soviet Union, 1919-1939,Cornell University Press
  • House, Jonathan M.[1984],Toward Combines Arms Warfare: A Survey of 20th-Century Tactics, Doctrine, and Organization,オンライン版 書籍版
  • Howard, Michael[1985],"Men against Fire",in Steven E.Miller(ed.) Military Strategy and the Origind of the First World War,Princeton Univ.Press(New Jersey)
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  • Liss, Ulrich[1959]Westfront 1939-1940,Kurt Vowinckel Verlag
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  • Nehring, Walther K.[1984] Die Geschihite der deutschen Panzerwaffe 1916-1945,Propylaeen Verlag
  • Richhardt,Dirk [2002]'''Auswahl und Ausbildung junger Offiziere 1930–1945 Zur sozialen Genese des deutschen Offizierkorps''',フィリップ大学マールブルク(ドイツ)博士学位論文
  • Summer, Ian[2005]German Ait Forces 1914-18,Osprey
  • Vollert,Jochen[2009]Panzerattrappen - German Dummy Tanks - History and Variants 1916-1945,Tankograd Publishing
  • カール=ハインツ・フリーザー『電撃戦という幻』中央公論新社、ISBN上巻4120033643下巻4120033651

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Last-modified: 2018-11-10 (土) 21:40:25 (254d)